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あし たの ヒント 早稲田大学

労働時間の経済学

片岡鶴太郎02

労働時間はなぜ長くなりがちなのか? データから人の内面を分析する経済学の手法で日本人の“働き方”について問い直す。

長時間労働がメンタルを疲弊させる

残業が続き、仕事の効率が落ちているのはわかっているのに「これだけは今日中に終わらせなければ」と粘ってしまい、さらに効率が落ちていく。そんな負の連鎖から抜け出せないというビジネスパーソンも多いのではないだろうか。はっぱをかける上司と、残業続きで疲弊している部下の板挟みに悩んでいるミドルマネージャーも少なくないだろう。
だが、「長時間労働は確実にメンタルヘルスを悪化させます」と警鐘を鳴らすのは、早稲田大学教育・総合科学学術院の黒田祥子教授だ。以前から、働き過ぎによる過労死や自殺など、長時間労働とメンタルヘルスには因果関係があると考えられてはいたが、メンタルヘルスは個人的な要素が影響するため、分析しても系統的な要因は見い出しにくいとされ、データを使った厳密な分析はこれまであまりされてこなかった。そこで、黒田教授は、慶応義塾大学商学部の山本勲教授と共同で、企業に勤める約700人を2年間に亘って追跡調査し、長時間労働が働く人のメンタルヘルスに与える影響だけでなく、企業経営に与える悪影響の実態について研究した。
「もちろん、ストレス耐性や性格などの影響はありますが、そうした個体差を統計的に取り除いた上でも、長時間労働が悪い影響を与えることが判明しました。特に、サービス残業が多くなると、悪化する傾向にあります」
そもそも、日本の労働時間は他の先進国と比較しても長い。それが日本経済の発展を支えてきたという見方もあるが、単位時間当たりの労働生産性は、アメリカの約6割、ノルウェーの半分にも満たないとのデータもある。残念ながら、日本の企業はただ時間を浪費し、疲弊を生産しているに過ぎないのだ。

過剰な「おもてなし」が長時間労働を招く!?

では、なぜ日本の職場では労働時間が長くなるのか。
「自分の仕事が終わっても周囲に気兼ねして帰れないという風潮もあります。また、事前に多くの人に根回しをしなければならない状況が、労働時間を長くしているようです。私たちの調査では、長時間労働をしていた人がヨーロッパに転勤すると平均的に日本にいた時より労働時間が1日30分程度短くなることがわかりました。ただし、根回しの対象人数がヨーロッパに行っても変わらなかった人は、労働時間も短くなっていませんでした」
日本の企業には、現場への権限移譲が進まず、どこまで自分の裁量で決められるのかが不明瞭な職場が少なくない。多くの人に了承をもらうといった根回しが必要になる。
そして、仕事の進め方に裁量権のない労働者ほど、メンタルヘルスの状態は悪くなるという。
「もうひとつは、『おもてなし』です。おもてなしが日本の強みだと言われますが、行き過ぎたきめ細やかなサービスの競争化が、長時間労働につながっているようです」
と黒田教授は言葉を続ける。顧客に無理な納期を言われても、残業で何とかしてしまう。あるいは、求められている品質以上の製品・サービスを提供することで、価格以上の価値、満足を"差し上げる"ことが当然だとする文化。聞こえはよいが、ではどうするかという確実な解がないだけに、現場はただ苦悩するということになりがちだ。

後手に回る対策よりも働き方の改善が必要

その苦悩を減らすには、納期の調整やタスクの明確化が有効なはずだが、「何とか乗り切れ」とはっぱをかけるばかりでメンタルヘルス対策が後手に回っている企業が多い、と黒田教授は指摘する。
「メンタルヘルス対策というと、不調をきたしている社員を早期に発見して対処する2次予防や、不調のために休職していた社員の復帰と再発防止の3次予防が多い。しかし、休職までには至らなくても、メンタル不調で仕事の効率が落ちている社員にまでは、あまり目が行き届いていません」
実際には、休職するほどの不調に陥る社員はごく一部で、不調を抱えながらも出社し続けている社員のほうがはるかに多い。そして、そうした社員が増えれば当然ながら企業の生産性は低下する。企業にとっては、こうした目立たない不調を抱えた社員のほうが影響は大きいともいえる。
「メンタル不調の未然防止とそのための環境づくりを行う1次予防や、メンタルヘルスを崩さないようにする0次予防が重要です」
0次予防の対策として黒田教授が注目するのは「ワークエンゲージメント」。これは自分の仕事に対して誇りややりがいを感じ、集中して積極的に取り組めている状態で、このような働き方をしている時、メンタルヘルスは安定する。また、従業員がいきいきと働いている職場は業績も向上することがわかっている。
では、どのような職場ならば、社員はいきいきと働けるのだろうか。
ひとつは仕事の進め方に対する裁量権を個々人に渡すこと。自分でいつ、どのように仕事を進めるか決められれば、労働時間が多少長くてもメンタルヘルスの悪化は防げるという。
また、職場での人間関係も大きな影響があることがわかっている。ある上司の下ではいきいきと働いていた社員が、異動などによって不調をきたす事例は多い。
「企業の持つ異動などの人事データと、社員のメンタルヘルス状態のデータを組み合わせて分析できれば、それまで活躍をしていた人が、どのような上司と相性が悪く不調になりやすいかなどの分析が可能になります。しかし、人事データとメンタルヘルスのデータを組み合わせた研究は、現状ではほとんど進んでいません。産学が連携してそうした研究を進めることで、企業もよりきめ細かで効果的なメンタルヘルス対策ができるようになるはずです」

日本的な長時間労働を見直すために、働く人が気をつけるべきことを黒田教授に伺った。

① 自分の身は自分で守る
「一人ひとりが、過度の長時間労働は自分にとっても会社にとっても悪影響を及ぼすことを理解し、自分のことは自分で守るという意識を持つことです。メンタルヘルスの問題だけでなく、今後は大介護時代に突入します。無駄な長時間労働を無くし、決まった時間内で効率的に働く意識を組織全体で持つことができれば、大きく変わっていくかもしれません」
② メールのCCを減らしてみる
CCを減らせば「メールの時間減はもちろんですが、自分の仕事の裁量権を明確にすることにもつながります。"ここまでは自分の仕事"、"ここだけは相談"と自分にも周囲にも明確にすることで、お互いの仕事量を減らせます。

黒田祥子(くろだ さちこ)

早稲田大学教育・総合科学学術院 教授

黒田祥子(くろだ さちこ)

1994年、慶応義塾大学経済学部卒業。日本銀行金融研究所勤務を経て、一橋大学経済研究所助教授、一橋大学経済研究所特任准教授、東京大学社会科学研究所准教授を歴任。2009年慶応義塾大学より博士号(商学)を取得。慶応義塾大学の山本勲教授との共著『労働時間の経済分析-超高齢社会の働き方を展望する』(日本経済新聞出版社)が第57回 日経・経済図書文化賞を受賞。