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「情熱が築く」

Special Edition “Construct”

「情熱が築く」

安藤 忠雄

70歳を超えてなお第一線を走り続ける建築家、安藤忠雄氏。
繊細でありながら力強く、俗世から切り離されたような異空間を築く氏の作品は、世界中の人々を魅了し続けている。
いったい「安藤忠雄」という人物はどんな経験をして、なにを考え、心の中になにを築きあげてきたのか。
そして、経済発展が絶対だった社会が機能不全に陥り、誰もが新たな形を模索している今、なにを考えるのか。
氏の想いを聞いた。

安藤 忠雄01

快適ではない家が伝えること

1976年に「住吉の長屋」という住宅を設計しました。私が35歳の時です。
家の真ん中に中庭があって、どの部屋に移動するにも、屋根のない中庭を通らなければいけない家です。住みにくいと評判が悪かったですね。雨の日は、傘をさして中庭を移動しなければいけない。ローコストで冷房も暖房もないから快適に過ごせない日もあるでしょう。
当時「一体どうやって生活するんだ?」と、よく聞かれました。そんなもの住み手が自分で考えればいい、そう思っていました。暑かったら上着を脱げばいい。寒かったらシャツをもう1枚着ればいい。まだ寒ければ我慢すればいい。現代人が便利な日常に慣れきった果てに放棄した、「考えること」「感じること」と向き合える空間なんです。そんな家があってもいいじゃないですか。

安藤 忠雄02

住吉の長屋
1976年(昭和51年)2月竣工。大阪市住吉区の三軒長屋の真ん中の1軒を切り取り、中央の3分の1を中庭とした鉄筋コンクリート造りの小住宅。生活にとって重要である通風、採光、日照などの確保を知悉(ちしつ)していたことから、大胆なデザインによる革新的な住宅が着想された。

宝物は心の中に

25年前から、瀬戸内海に浮かぶ直島をアートの島にするというプロジェクトに携わっています。「生きていてよかったと感じる場所を作りたい」と、(株)ベネッセコーポレーションの福武總一郎会長(兼CEO)が考案したプロジェクトです。
私はその想いに最大限応えるべく、直島を世界で一番美しい現代美術の島にしようと力を注いでいます。92年に施設の一部が完成して以来、建物の大部分を地中に埋設した「地中美術館」や、民家を改修して作ったアートスペースなど、いくつかの施設が完成しています。
オープン以来、「現代美術の島」という触れ込みを耳にしたお客さんが、大勢駆けつけてくれています。多くの皆さんは、きっと直島で過ごす時間からなにかを与えてもらおうと、いわば宝物を探しにくるのだと思います。でも本当は、宝物は一人ひとりの心の中にあるんです。建物をつくっていますが、これは心の中にある宝物に気づいて確認してもらうための装置にすぎません。施設の一つに、真っ暗闇な空間の中で何分も待ち続けないと作品が見えてこないアートスペースがあります。真っ暗闇で何が起こるかわからない中で待ち続けるという作業は、本能的に苦痛です。しかし、その時間を乗り超えるところにこの作品の価値があるのです。待ち続けて、目が慣れ、作品が次第に浮かびあがってきた時の不安と感動が入り交じった感覚は、耐え切った人だけが感じることのできるものなのです。この体験は、作品や空間が一方的に提供したものではありません。皆さんの中にあるものが呼び覚まされただけなのです。
「感性に呼応し、自分を取り戻すことができる場所を作る」。私は常に、社会の役に立つ仕事をしていきたいと考えていますが、私が社会に対してできることの一つは、こ ういうことなのではないかと思っています。

安藤 忠雄03

ベネッセアートサイト直島
安藤忠雄のマスタープランの下、1980年代後半より瀬戸内海に浮かぶ直島、豊島、犬島で行っているアート活動。地中美術館(2004)、李禹煥美術館(2010)など複数の美術館をはじめ島内の海岸や古民家や路地などにも舞台をひろげる。


安藤 忠雄04

地中美術館(2004 年)

数学の魅力と職人の熱意に導かれて

私が建築家という仕事を意識しはじめたのは、中学時代です。最初のきっかけを与えてくれたのは、「数学は美しい」と語る数学教師でした。数学は、知識を詰め込むだけではどうにもならない世界。構想し、解析し、まるで次元の違う新しい方向へ自分の力で持っていく。まんまと数学の魅力に取り憑かれました。
一方で、同じ時期に自宅を増築することになり、出入りする若い大工さんの仕事を目の当たりにする機会がありました。彼の働きぶりが実に熱心で、「人間というのは、こんなに一心不乱に働くものなのか」と、時間を忘れて彼らの仕事に見入っていたことを今でも覚えています。この二つの出会いがなければ、私が建築の世界へと導かれることはなかったでしょう。
建築を学ぶといえば、大学の建築学部に進学するのが当然です。しかし私は家庭の事情で祖母に育てられていたので、そのお金を捻出する余裕はありませんでした。
祖母の「高校だけは出ておきなさい」という言葉に甘えて、高校には通わせてもらいましたが、女手ひとつで育ててくれた 祖母に、これ以上負担をかけたくないという思いから、私は働く中で勉強していくという道を選んだのです。

勇気と体力で学んだ20代

あちこちの建築事務所でアルバイトをしながら建築の勉強をしてみると、感触はそれほど悪くなく、やっていけるかもしれないと思えるようになりました。23、4歳の頃は、とにかく建築の本を読みあさったものです。しかし読んだものを次々と吸収できたわけではありません。本を読むという習慣がまったくない人生を歩んでいたため、何度読んでもうまく読み込めないのです。
そこで自分なりの勉強法を考えました。本物と向き合って、自分が感じることを調べていけばいいのです。住んでいた大阪から少し足を延ばせば、法隆寺も東大寺もある。絶好のお手本でした。こんな大きいものをどうやって組み立てたのか? どの時代に、どこから材料を持ってきたのか? どんな技術が使われているのか? すぐに没頭しました。想像力をかき立てられ、好奇心に導かれるように勉強に取り組んだ日々。頭の中は常に建築のことばかりでした。
一人で日本を一周したときには、この国の風景の美しさを体中で感じました。広島では、戦争の惨さも目の当たりにしました。64年、外国への渡航が自由になったのをきっかけに、海外にも出かけました。渡航経験がある人など私のまわりにはほとんどおらず、「二度と日本に帰れないかもしれない」という不安もありましたが、それでも世界の名建築を自分の目で見たいという想いが上回りました。お金はなくとも勇気と体力はある。若さとは偉大です。この時に体感してきたことは、少なからず私の建築に対する考え方に影響を与えています。

青春の在処

10代、20代にしっかりと青春を体験することは、とても大事なことです。私の場合は、古今東西の建築を見て歩き、必死に勉強し続けたことが青春でした。振り返れば青春時代なんてあっという間でしたが、その中で得た情熱はいつまでも心に抱けるものです。"自分なりの青春"を体験しているか否かということは、その後の人生に大きく関わってくるのです。
何とも闘わない青春時代をただなんとなく過ごしてしまうと、年をとってから心が戻れる場所がないんです。今の若者たちはどうなのでしょうか。文学でも哲学でも絵画でも、何でもいい。自分なりの生涯の青春となるものを心に抱く時間を過ごしてもらいたいですね。
私も年齢を重ねてきましたが、今でも気持ちは20代のときの情熱を持った「青春時代」のままです。仕事でアジアやヨーロッパ、アメリカにも足を運びます。正直移動だけでも大変です。さらに仕事がうまくいかないこともしょっちゅうです。でも、青春時代の自分に立ち返ると、「まだ頑張れる!」という力がみなぎってくるんです。この情熱は、生涯持っていたいと思っています。

安藤 忠雄05

異質なものとの出会い

これまで仕事を続けてこられたのは、私自身がたどったちょっとばかり異質な経歴に負うところが少なくないと思っています。
日本は、60年頃から誰もが平穏に生きることができる社会を築いてきました。しかしそれは、同じような家に住み、同じような服を着て生きることを良しとする風潮を生み、等質で平均的な人間を大量生産してきたと感じています。
最たるものが教育で、この国は同じくらいの成績の子どもたちを集めて、同じ学校に詰め込むということをしてきました。そういう場所で育った子どもたちが大人になって作った社会はというと、「異質なものを受け入れられない社会」になってしまってはいないでしょうか。さまざまな性質や価値観をもった人間が集い、語り合い、ぶつかり合うことが、新しいものを作り出していくのだとすれば、現在の教育システムは、その真逆にあると言わざるを得ません。
同時にこの数十年、多方面で目覚ましい技術の進歩がありました。良い面ばかりが強調されがちですが、生活を快適にするべく進歩したさまざまな技術は、一方で人間を甘やかすという側面も持っています。人は過保護にされると、自分の頭で考えることも、五感で感じることもやめるんです。日本人はもともとさまざまな表情を見せる四季の中で工夫し、繊細な感性を磨いて生きてきたはずです。日本人にノーベル賞受賞者が多いのも、こういった繊細な感性を育む地に生まれ、生きてきたからだと思っています。今こそ、考える力を持った本来の日本人の感性と誇りを取り戻すべきです。
もう一度、一人ひとりが平均的な思想にとらわれるのではなく、自分の存在を見つめ、考えてみてほしい。そして自分の存在と同様に、世界の中にある日本という存在も見つめてほしい。皆が自らの感性と誇りを取り戻し、日本という国がこの世界の中で何をするべきか考えていけば、この国は必ずよくなると確信しています。

安藤忠雄(あんどう ただお)

建築家

安藤忠雄(あんどう ただお)

1941年大阪市生まれ。建築家。独学で建築を学び、69年に安藤忠雄建築研究所を設立。79年に「住吉の長屋」で日本建築学会賞受賞後、95年プリツカー賞、2005年国際建築家連合(UIA)ゴールドメダル受賞。10年には文化勲章を受章。代表作に「光の教会」「淡路夢舞台」「地中美術館」など。ハーバード大学などにて客員教授を務めたのち、97年から東京大学教授。03年に同大学名誉教授。最近では、東日本大震災遺児育英資金「桃・柿育英会」実行委員長、東日本大震災復興構想会議議長代理、新国立競技場国際デザイン・コンクール審査委員長なども務める。