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「私を強くしてくれたもの」

Special Edition “Together”

「私を強くしてくれたもの」

三宅宏実

その一瞬のためにその一瞬のために

ロンドン五輪の女子ウエイトリフティングで銀メダルに輝いた三宅宏実さん。
過去2回のオリンピックでは期待されながら表彰台を逃すという苦い経験もしているが、自分を見つめ直し、多くの支えを糧に技と心を鍛えあげたという。
彼女をメダルに導いたものは、なんだったのだろうか。

その一瞬のために

ウエイトリフティングは”一瞬“にすべてをかけるスポーツです。バーベルを上げている時間は、せいぜい1~2秒。 大会ではスナッチ3回、ジャーク3回、計6回の試技があるのですが、すべてを合わせても頭の上にバーベルがある 時間は6~7秒です。
このわずか数秒のために、私たちは全力を尽くしてトレーニングをします。単にパワーがあればいいというわけではありません。動かないものを動かすためには、ときに力を抜いたりするテクニックも必要になってきます。「できない」と思うと失敗してしまうので、メンタル的な要素も欠かせません。見た目の豪快さとは裏腹に、ウエイトリフティングは非常に繊細なスポーツなんです。
シドニー五輪を見て感動した私は、中学3年生のときにウエイトリフティングを始めました。最初、スポーツを続けることの辛さを知っていた母は反対しましたが、最終的に父が「どうせやるならオリンピックでメダルを目指せ。そこまで頑張るならやりなさい」と言ってくれて、この道に進むことになりました。しかし、いざやってみると、見るのとやるのとでは大違い。とても難しい競技で、何もかもが新鮮であっという間にのめり込んでいきました。以来、12年間、メキシコ五輪で銅メダルを獲得した父の指導をマンツーマンで受けながら、数秒にかける人生を歩んできました。
幸い日本代表として3回のオリンピックに出場し、ロンドンでは女子48kg級で銀メダルに輝くことができました。 とはいえ、決して順風満帆な競技生活だったわけではありません。何よりもアテネと北京の2回のオリンピックでチャンスをもらいながらも、表彰台を逃したのは苦い経験でした。北京が終わった後などは、「このままではロンドンでも同じ結果になるのではないか」という不安にさいなまれていました。
怪我や体調管理・自己管理不足。敗因を挙げればキリがありませんが、自分をとことん振り返りました。そして、根本的な原因があることに気づきました。それは、父の存在です。

父として、コーチとして

父として、コーチとして

もちろん、私がここまでやって来られたのは、父の指導の賜物です。その豊富な経験もさることながら、褒めて伸ばす指導法が、私にマッチしていました。プライベートではあまり褒められた経験がなかったのでうまく乗せてくれた面もあります。
毎日父が決めてくれたメニューに沿って練習していました。そこには私自身の創意工夫や自主性はありませんでした。繊細なこの競技でメダルを獲ることがいかに大変なのかを知り、心から父を尊敬していたからこそ、頼りきってしまったのかもしれません。
しかし、オリンピックの舞台はひとりで戦わなければなりません。自分自身の精神的な強さがなければ、到底勝ち残ることはできないスポーツです。父の指導に従う自分と、ひとりで戦わなくてはならない自分の両方に挟まれて葛藤していたのも事実です。
だんだんと自分に自信がなくなり、北京のときには「この重量を出せばメダルが獲れる」と言う父に、実はどこか で「本当に?」と考えてしまう自分がいました。そんな自信のなさから、次第に父の言葉を信用しきれなくなっていき、迷いが生まれ、それを引きずったままオリンピックという舞台に立ってしまったのです。心技体が整わない状態で結果が付いてくるはずがありません。
そういう自分の感情にはっきりと気づき、なんとかしなければと思ったのは競技生活が10年目に差し掛かる2011年頃です。まず、頼りきっていた自分を変えていくために、単に言われたことをやるのではなく、私の“したいこと ”“考えていること”を父に伝えました。父も私の思いを真摯に受け止め耳を傾けてくれました。そして、お互いにどんな思いでトレーニングをしていくのかが明確になっていきました。父も、自信を取り戻した私を次第に信頼して練習を任せてくれるようになりました。

失敗は良くなるためのステップ

失敗は良くなるためのステップ

競技生活10年目にしてはじめて強く意識した自主性。そのおかげで、以降の2011年、2012年シーズンは充実した時間を過ごすことができました。2011年の全日本女子選手権大会では一つ上の53kg級ではありますが、トータル207kgの日本新記録を達成。自信を深める大きな転機となりました。そのままの勢いでロンドン五輪に臨むことができたことが、銀メダルにつながったと思います。
遠回りしたのかもしれません。しかし、アテネと北京の失敗があったからこそ、父とのコミュニケーションの大切さに気づくことができたのです。昔は失敗するとクヨクヨと思い悩んだものでしたが、今では失敗とは良くなるためのステップで、怪我だって何か意味があるとさえ考えられるようになりました。
ロンドンで表彰台に立つことができたのは、母の存在も大きかったです。母はこの10数年間、1日30品目織り交ぜた バランスの良い食事を毎日欠かさず作り続けてくれました。大皿にまとめるのではなく、小鉢に細かく料理を乗せることで、自分が何をどのくらいの量、食べているのかがわかるように手間をかけてくれています。
父と私が喧嘩をしたときも、仲介役になってくれるのは母です。親子3人で一致団結して同じ目標に向かうなんて、普通ではなかなかできないこと。その経験も本当に貴重だと感じています。

笑顔の恩返し

メダル獲得後は、環境が天と地ほど変わりました。メダルを逃したアテネと北京のときは、迎えのない空港に降り立って寂しく帰りましたが、ロンドンのときは100人以上の方たちが、笑顔で「おめでとう」と言ってくれました。
講演などに呼んでいただく機会も増えました。人前で話すのは苦手だったのですが、メダルを獲った私の経験を伝えることで皆さんが笑顔になってくださるのならと、挑戦するようにしています。
父が宮城県の村田町出身なので、宮城県にもよくお邪魔しています。東日本大震災発生後は、被災地に支援物資を届けたこともありました。あのときはロンドン五輪の1年前でした。つらい経験をしている方たちに対して何ができるのかと色々と考えさせられました。オリンピックに出場することで、被災地の皆さんに少しでも笑顔になっていただきたい。そんな思いを胸に秘めながらロンドンの舞台を目指しました。
ロンドン後、被災地各地を訪れましたが、元気に満ちあふれる子どもたちの笑顔が本当に心に染みました。メダルを持って行くことで、元気になってもらいたかったのに、逆に私の方が皆さんから元気をもらって帰ってきました。被災地とのつながりはこれからも大切にしていきたいです。
メダリストの役割といえば、2020年東京オリンピック・パラリンピック招致アンバサダーにも任命されました。招致の実現により、震災からの復興も遂げられればいいなと思っています。
選手にとっても自国開催はうれしいものです。私が自己新記録の207kgを達成した場所は地元の埼玉県でしたが、観客席から目に見えないたくさんのパワーをもらいました。招致が実現すれば、オリンピックに臨む日本代表の選手たちも、きっとものすごい力を発揮してくれるはずです。
2020年まで現役でいられるかはまだわかりませんが、私もどんな形でもいいので東京オリンピックに関わっていきたいですね。もっとも、その前にリオデジャネイロが待ち構えています。これから3年半、トレーニングを積み重ねて頑張っていきます。

三宅宏実(みやけ ひろみ)

ロンドン五輪 ウエイトリフティング 女子48kg級 銀メダリスト

三宅宏実(みやけ ひろみ)

1985年11月18日生まれ。埼玉県新座市出身。父はメキシコ五輪で銅メダルを獲得した三宅義行氏。中学3年生からウエイトリフティングをはじめ、アテネ、北京、ロンドンの3大会連続でオリンピックに出場。ロンドンでは女子48kg級で銀メダルに輝く。女子48kg級(トータル197kg)。女子53kg級(トータル207kg)の2つの日本記録を有する。