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奈良女子大学 中澤隆 教授

プロテオミクスが古代史に光を当てる ― はるかなる飛鳥より

タンパク質考古学

その石室に眠っていたのは、いったい誰だったのか。考古学と分析化学。
2つの学問の接点で、知られざる事実が見つかろうとしている。

タンパク質考古学

平城京の復元地図に奈良女子大学を重ねると、東のはずれに位置する。歩いて数分のところには、東大寺や阿修羅像で有名な興福寺があり、歴史の面影が色濃く漂っている。
「掘れば何かが出てくる土地柄。研究材料には事欠きませんよ」
と、笑うのは同大理学部の中澤隆教授だ。教授は、同大学が進める「学際的共同研究体制に基づくタンパク質考古学創成事業」の代表を務める。タンパク質を網羅的に調べるプロテオミクスの手法を考古学に持ち込み、新たな視点から歴史を探ろうとする野心的なプロジェクトだ。
タンパク質は、食物として体に取り込めば、すぐに分解されてしまうが、自然の状態にある場合、ときに膨大な時間にも完全には壊れることなく昔の面影を残していることがある。実に8000万年前の恐竜の化石に、タンパク質が保存されているのが発見されたこともあるという。中澤教授らはそこに着目し、古代の遺跡や地層から発掘される遺物、書画や仏像などの美術工芸品に含まれるタンパク質を分析して、刻み込まれた生物や時代、環境、そして工芸芸術などの情報を読み解こうとしている。

聖徳太子の棺

教授が目をつけた「指標」の1つが絹だ。1本の絹繊維は、一対の水に強いフィブロインというタンパク質線維が2本と、それを包み込むセリシンというタンパク質でできている。断面の顕微鏡写真を見るとちょうど電気コードのような形状だ。セリシンは水に溶けやすく、絹糸を作る工程ではある程度まで表面のセリシンをお湯につけて流し落とす。それによって美しい光沢とすべすべした触感が生まれるのだ。
今日でも絹は高級素材だが、飛鳥時代(6~8世紀)、その価値は「金銀宝石に迫るほど」(中澤教授)で、着用できる人物は非常に限られていた。
だが、その絹をふんだんに使って作られた棺があるという。
歴史上初めてその棺に納められたと考えられるのは、聖徳太子(574―622)だ。布を30層以上重ねて漆で固めて形づくる 「夾紵(きょうちょ)」と呼ばれるきわめて手の込んだ技法で作られた棺で、総シルク製のものが太子の墓所とされる叡福寺北古墳から発見されている。夾紵棺自体は通常、高級素材の漆を惜しげもなく使っているものの、多くは麻布製だ。絹の棺は、まさに太子の威光を象徴するにふさわしい豪華さを備えていた。

聖徳太子の棺

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳。古墳の内部は、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた珍しい構造で、この中に納められていた夾紵棺に絹が使われていた。

残っていた絹タンパク

奈良女子大学にも夾紵棺の破片が保存されていた。1914年(大正3年)、奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘調査で泥の中から見つかったものだ。近年になって顕微鏡観察したところ、聖徳太子の棺によく似た数本の繊維が見つかり、少なくても一層か二層は絹が使われていた可能性が高まった。
牽牛子塚古墳に埋葬されたのは、女帝・斉明(さいめい)天皇(594―661)とその娘間人皇女(はしひとのひめみこ)(―665)ではないかと見られている。2人の埋葬先と考えられている古墳は他にも複数あるが、牽牛子塚古墳の棺が、棺として最高ランクの夾紵棺で、しかも、もし絹が使われているとなれば、国家プロジェクトクラスの埋葬であったことは間違いなく、少なくても大王クラスの古墳であることはほぼ確定する。
そう考えた中澤教授らは、この破片に絹が含まれているかどうか、島津の質量分析装置AXIMA Performanceを使って確認した。その結果、確かに絹のタンパク質成分が検出された。ただ見つかったのは不思議なことに、2つのタンパク質のうち水に溶けやすいセリシンだけだった。
「たぶんフィブロインはバクテリアに食べられちゃったんでしょう。セリシンのほうが漆になじみやすいため、漆の防腐作用でバクテリアを寄せ付けなかったのか。また別の理由があるのか。ともあれ、わずかな試料から4mg削り取っただけでよく検出してくれたと思います」

残っていた絹タンパク

奈良女子大学に保存されている牽牛子塚古墳から発掘された夾紵棺の破片。

歴史は変わる

中澤教授の「本職」は有機化学だ。タンパク質を同定する手法の開発がもっぱら興味の対象で、「ふつうの方法ではできないことを、どうやったらできるか考えるのが好きなんです」
と微笑む。今回の絹タンパク質の同定も、自ら開発した手法を応用したものだ。
学際的共同研究体制に基づくタンパク質考古学創成事業は、研究仲間らと「奈良らしい、なにかおもしろいことができないだろうか」
と話す中から生まれ、代表に収まったものの、それまで歴史はまったくの門外漢だったという。
「まず漢字が難しくて。共同研究している文学部の先生に怒られてばかりですよ」
と、頭をかく。
だが、プロジェクトを通して歴史への興味が頭をもたげてきたようだ。
夾紵棺について調べているうちに奇妙なことに気づいた。夾紵棺の被埋葬者と考えられるのは、前述の聖徳太子とその妻膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、斉明天皇親娘のほか、天武天皇(631?―686)と藤原鎌足(614―669)の合計6人だ。
なぜだろう、と教授は首をかしげる。
同時期の王家には、大化の改新で律令国家の礎を作った天智天皇(中大兄皇子:626―672)もいる。だが、その墓所で夾紵棺が見つかったという報告はない。天武天皇の妻で同じ古墳に埋葬されていた持統天皇(645―703)は火葬されて棺すらない。
藤原鎌足は、天智天皇にとって蘇我氏を討ち、天皇家へ実権を取り戻した大功労者だ。だが、だからといって、天皇家を差し置いて夾紵棺に葬られる特権を与えられるものだろうか―。
科学の進歩はしばしば「歴史を変えて」きた。よく知られているところでは、古代の植物組織に遺存するプラント・オパールを古環境の指標とする手法が確立したことで、約6000年前にはすでに日本で稲作が始まっていたことが明らかになった。それまでの説から一気に数千年もさかのぼることとなり、大いに話題を呼んだ科学の成果だ。
もしかしたら、プロテオミクスの導入が飛鳥のあるいは日本の歴史をさらに書き換えることになるかもしれない。
「貴重な歴史的資料から分析用のサンプルを入手するのはなかなか難しい。でも、少しずつでも科学の力で紐解いていけたらいいなと思っています。なにしろ1400年も前の試料だから壊れるものは壊れてしまっていますし、あわてないでいいのがこの研究のいいところです」

歴史は変わる

大学にある島津の質量分析装置AXIMA Performanceで分析した結果、夾紵棺の破片から絹のタンパク質成分が検出された。

中澤隆(なかざわ たかし)

奈良女子大学理学部化学科 教授

中澤隆(なかざわ たかし)

1982年、大阪大学大学院理学研究科博士後期課程有機化学専攻修了。理学博士。岡崎国立共同研究機構生理学研究所協力研究員を経て、’84年に奈良女子大学理学部助手、’93年同助教授、2008年から現職。専門は有機化学、タンパク質科学。奈良女子大学「学際的共同研究体制に基づくタンパク質考古学創成事業」の代表を務める。(独)国立文化財機構奈良文化財研究所と共同で平城京出土遺物の研究もおこなっている。