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「楽しむことが力になる。」

Special Edition “PARADIGM SHIFT”

「楽しむことが力になる。」

森 理世

ハッピーでいること

3年前、森理世さんは世界最高峰の美の栄冠である「ミス ユニバース」に輝いた。日本人として約50年ぶり、2人目の快挙である。半世紀にわたって日本代表が逃し続けてきた最高峰の座に森さんはいかにしてたどり着いたのだろうか。そこに、特殊な技術があったわけではない。ただただ、子どもの頃からの信念を貫き通しただけだという。日々の積み重ねがもたらした、類まれなる変革―少しずつ、着実に階段を昇ってきた半生を、森さんに振り返ってもらった。

ハッピーでいること

ミス ユニバースの最終審査は質疑応答でのスピーチでした。
世界約80カ国から各国の代表として選ばれたミスが集結した世界大会も、いよいよ大詰め。壇上に残っているのは、わずか5人です。4万人の観客の目が、私たちに注がれていました。
スピーチは事前に何度もリハーサルして、言うべきことを頭に叩き込んでいたつもりでした。これまでの出場者のビデオをすり切れるくらい見返し、どんな質問にも答えられるよう準備していたつもりでした。
ところが、いざ口を開こうとしたとき、突然、頭が真っ白になってしまったんです。表情の作り方も、スピーチのテクニックも、すべて吹っ飛んでしまいました。
そのとき、突然、湧き上がってきた言葉がありました。そして、その心の声に突き動かされるように、私の口から言葉が自然に流れ出てきたのです。
「私は幼い頃からハッピーでいること、我慢強くいること、ポジティブでいることの大切さを母たちから学びました。これからは私が次の世代にこれらのことを伝えていきたい」
この言葉は、自分自身そのもの、と言ってもいいかもしれません。それまでの人生、といってもほんの19年ですが、その間少しずつ積み上げてきたものが、その言葉の中に凝縮されていたと思います。

ダンスが私をつくってくれた

私が積み重ねてきたもの、それはダンスのテクニックです。ジャズダンサーだった母の影響で、4歳のときから母のもとでダンスを始めました。
実は小さい頃の私はとても恥ずかしがり屋で、幼稚園のお遊戯会などでは、後ろの列の端っこが指定席でした。
でも、母が懸命に稽古している様子を傍らで見ていて、いつの間にか、私も「母と同じダンサーの道に進むのだろう」と思うようになっていました。気が付けば、みんなの前で踊る恥ずかしさよりも、「母のように踊りたい」という気持ちが勝るようになり、ダンスに熱中する子ども時代を過ごしました。
でも、ある日、母が先生であるという点は、私の弱点ではないかと、ふと思いあたったんです。教室の友達のなかには、母にダンスを教えてもらいたいからと、遠い場所から何時間もかけて通っている子もいます。そういう子は私なんかよりもダンスにかける思いが大きくて、「自分は甘い。心の意識が決定的に違う」と感じさせられていました。

ダンスが私をつくってくれた

その感覚が私にとっての最初の“革命”につながります。きっかけとなったのは、中3のときに地元にやってきた海外のダンスチームのステージでした。ダンスをすること自体を自然に楽しんでいるダンサーばかりで、大きな衝撃と感動を覚えたんです。私も人を感動させるダンサーになりたい。そのためには海外で修業することはプラスになるのでは―そんな風に考えるようになったんです。
母である時と師匠である時、子供の頃から理解していましたが、いつまでも母のもとにいては母のいる場所までたどり着けないでしょう。しかし、異国の地にひとり身を置き、修行をするという経験は必ずダンサーとして大きなレベルアップに繋がると考えました。
海外で生活するなんてそれまでほとんど考えたこともなかったのですが、そこから夢中で準備し、合計3年間、カナダに留学。英語もろくに話せない中、現地の高校に通いつつダンススクールでスキルアップを図り、バレエスクールでは教師課程も修了しました。もちろん簡単にできることではなく何度も逃げ出しそうになりましたが、森家家訓である努力・根性・気合でやり遂げました。

大きなことに挑戦してみたら?

高校卒業後はニューヨークに行き、ブロードウェイダンサーになるためのプログラムをパスしたことをきっかけに、渡米し世界的なダンスカンパニーのオーディションに挑戦するつもりでした。その気持ちを固めて、いったん2ヵ月間の帰国。ここで私の人生で2番目のターニングポイントが訪れます。留学の準備に追われる毎日の中、ふと祖母が「10代最後の思い出に、大きなことに挑戦をしてみたら?」とアドバイスしてくれたんです。
私の中ではブロードウェイダンサーになるという挑戦がまさに“大きなこと”でしたが、それ以外のものに挑戦して、おばあちゃんの笑顔を見てみたいという気持ちが強かったんです。
そこで、改めて祖母と話をしたところ、「どうせやるなら世界一大きな美人コンテストに挑戦してほしい」と。祖母の思いを叶えるために、海外で活動できるミス ユニバースに応募することにしました。たまたまオーディション用の写真が余っていたこともあったので、思い出づくりくらいの感覚でした。
そして応募したことも忘れ、ニューヨークに発つ2日前に書類審査に合格の連絡が。あっという間に日本大会に挑戦することになりました。ニューヨーク留学をキャンセルしなくてはなりませんでしたので、悩みました。しかし、今しかチャレンジすることのできない未知の世界へのチャンスを選択したのはダンスが本当に好きであれば必ずダンスに戻ってこられると信じていたからです。

最高の舞台を楽しもう

ダンスに集中してきた私は、ファッションにあまりこだわるところがなく、いつもノーメイクにポニーテールのスタイルで過ごしていました。ハイヒールは、ダンサーにとって大切な足の怪我の原因になりかねませんから、履いたことなんてほとんどありませんでした。
でも、ミス ユニバースを目指すのならば、女性らしいメイクやファッションも身につける必要があります。正直、他のライバルに比べたら足りないことだらけでしたが、幼少、そして留学で行なってきた、学ぶなら徹底的にという姿勢を貫き通しました。あきらめずに努力したことが、日本代表に選ばれたポイントだと思っています。

最高の舞台を楽しもう

次は世界各国代表のミスたちとの勝負です。外見磨きや身のこなしのトレーニングだけではどうしようもない壁も、そこにはあったと思います。少しでもヒントになればと、ミス ユニバース世界大会のビデオを借り、テープが擦り切れるぐらいまで見返し、大会の模様を研究していきました。気がつけば出場者の名前や国籍、身長などを覚えたり、話し方や歩き方をコピーできるようになるほど、ミス ユニバースの大ファンになっていました。
その中で私が発見したことは、ミス ユニバースに選ばれる女性に、共通点があまり存在しないということ。歩き方やスピーチの仕方などに高度なテクニックが散りばめられているのかと思いきや、そんな様子もありませんでした。しかし一つだけ、共通する部分に気付いたこと、それはミス ユニバースの座に輝いた全員がステージを楽しんでいたという点に尽きます。最高峰の舞台にのまれることなく、自分の空気と調和させ最高の笑顔を振りまいているから、人はミス ユニバースに魅了されるんです。
私自身、世界大会に出ることに身構えてしまい、堅くなっていた部分があったのも事実です。でも、ビデオの中で楽しそうに振る舞うミス ユニバースたちの姿を見ているうちに、私も同じ華やかな舞台に立てるというワクワク感のほうが勝るようになりました。いつの間にか「せっかくなら、最高の舞台を楽しもう」という気持ちになっていました。
世界大会は1ヵ月間行なわれます。2007年の開催国であるメキシコ国内で過密なスケジュールの中、チャリティ活動やイベントに参加し、様々な観点で審査が行われました。不思議と変な緊張感はなく、毎日がとても充実していましたね。
いちばん印象に残っているのは4万人も収容する巨大な会場で、幼い頃から培ってきたダンスを披露したとき。さすがに前夜は緊張していたのですが、当日、舞台に立ってみると、4万人の前で踊ることの嬉しさのほうがはるかに強くて、自分らしいショーステージにしようと楽しんで踊りを披露することができました。コツコツと積み重ねてきたものをこれだけ多くの人に見てもらえたことに感激しました。
私自身、頂点を目指して様々な努力を重ねてきましたが、結局、どんなことでもポジティブに捉え“楽しむ”という気持ちが、ミス ユニバースへと導いてくれた原動力になったのだと感じています。また、楽しむことができたのも、4歳からダンスをやり通してきた自信があったからこそだとも思っています。

初めてだらけの毎日

初めてだらけの毎日

ミス ユニバースになると、私の人生はまさに激変しました。優勝者に私の名が告げられた瞬間からSPが取り囲み、部屋もスイートルームに変わり、移動は常にファーストクラス。活動としても世界的な雑誌のグラビアを飾ったり、ファッションショーに登場したりと、見るもの、聞くものすべてが初めての状態。私が身勝手な発言や行動をしてしまうと、ミス ユニバースの伝統に泥を塗ってしまうことになりかねないので、繊細な問題については特に勉強し、任務に就いていました。
御存じの方は少ないでしょうが、そうした華やかな場は、ミス ユニバースの仕事のほんの一面です。実は80%はチャリティ活動に充てられているんです。誰にも平等に接し、助けを求める人がいるのなら見返りを求めずに手を差し伸べる―まさに社会貢献に取り組む存在が、ミス ユニバースなのです。私自身、HIV/エイズのスポークス・ウーマンとして正しい知識の普及活動を行った他、難病におかされた子どもたちの支援活動をはじめ、様々な社会問題にも取り組んできました。
その中で印象に残っているのは、HIV/エイズの患者さんの言葉です。就任当初、何をすればよいのかわからない私に「同情してほしいとは思わない。みんなには理解をしてほしい」と話してくださいました。同情しても状況は改善しませんが、理解が広がれば確実にHIV/エイズと向き合って生活している方たちの思いが尊重されるようになります。この言葉に私はチャリティ活動においてするべきことを実感し、現在も、誰でも気持ちがあればチャリティ活動に参加できる仕組みを作ろうと頑張っています。地道な活動ですが、これからその輪を広げていけるように力を尽くしていきます。

子どもたちに伝えたいこと

子どもたちに伝えたいこと

世界大会のステージで語った、「ハッピーでいること、我慢強くいること、ポジティブでいること」が大切という思いは、いまも変わることはありません。それこそが、私を今日まで支え、またミス ユニバースを私にもたらしてくれた原動力です。その気持ちを私に持たせてくれたダンスと、お手本としてその姿を見せ続けてくれた母やダンサーたちを今でも尊敬しています。
現在私は、この思いを次世代の子どもたちに伝えてゆくため、母とともに静岡にダンススタジオを開設し、直接指導にあたっています。私は子どもたちのクラスと上級者の各クラスを担当。ダンスの楽しさとともに、私が学んできた事や海外での経験を子どもたちに伝えられる場所であり、夢を叶える手伝いができる指導者になれるよう、これからも 全力で精進したいと思います。

profile

森 理世 (もり りよ)

1986年、静岡県生まれ。幼い頃からジャズダンスに熱中し、高校時代にカナダに留学。本場のダンスやバレエを学んだ後、10代最後の思い出にとミス ユニバースに挑戦。苦労の末に2007年度のミス ユニバース世界大会で頂点に輝く。現在は静岡で母とともに設立したダンススクールを運営しながら、モデルやTVなどの各種メディアでも幅広く活躍している。

〈衣装協力〉
CLASSrobertocavalli (IZA inc. 0120-135-015)
CESARE PACIOTTI (M INC. 03-3498-6633)
〈スタイリスト名〉
KENTARO TASAKI/田崎 健太郎