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(注)所属・役職および研究・開発、装置などは取材当時のものです。

冒険の理由

Special Edition “浪漫”

冒険の理由

吉村 作治

01

遥かなるエジプトの歴史。美しく謎に満ちたその古代世界に、日本人として初めて挑み、たぐいまれな行動力で数多くの貴重な成果を上げてきた吉村作治氏。
その原動力となったのは、一冊の本と強い意志だった。

引き留められて成功を確信

「ばかだなあ、そんなことできるわけないだろう」
会う人、会う人そう僕に諭しましたね。そのたびに僕は、内心ガッツポーズを決めていました。「よし、やはり成功まちがいない」と。
「エジプト考古学者になって、エジプト学科、エジプト研究所を作りたい」というのが僕の夢でした。早稲田大学在学中のことです。1960年代、日本中どこを探してもエジプト学をやっている大学はなかったんです。そもそも、日本人の海外渡航がようやく許可されるようになったばかり。海外イコール、アメリカかヨーロッパであって、それ以外の場所に興味を持つことは、少なくとも実学を重んじる私学の常識には当てはまらなかったんです。
でもね、やろうと思えば、人間できないことなんて何一つないんですよ。もちろん失敗の一つや二つはあるでしょう。それは死ぬまでに取り戻せばいいことです。反対する人が多いということは、競争相手も少ないということ。これは成功するに違いないと確信めいたものを感じていましたね。

一生を決めた発掘家のドラマ

エジプト考古学に興味を持ったのは、もとはといえば小学4年生のときに読んだ一冊の本がきっかけです。「ツタンカーメン王のひみつ」という児童向けの本で、ハワード・カーターという発掘家の伝記です。
イギリスの貧しい家に生まれ、小学校しか出ていない人でした。幼いころから体が弱く人付き合いが苦手で、あっちこっちでぶつかってばかり。物語の冒頭にあるこの記述で早くも僕はぐっと心をつかまれたんです。僕自身、運動も音楽も苦手で人とコミュニケーションをとるのも苦手。小学生ながら、これで人生うまく生きていけるのだろうか、と思い悩んでいたんです。そんなわけで、カーターに強く共感して、その本を読み進めました。
カーターは挫折を繰り返しながらも発掘を続け、40歳を超えたころ、発掘家の憧れである「王家の谷」を発掘できるチャンスを得ます。20世紀初頭のことですが、ヨーロッパのエジプト学はその時点で100年の歴史があって、王家の谷にはもう何も埋まっていないという意見が趨勢を占めていたんです。多くの発掘家が手を引くなかで、彼は、確信を持ってそこを掘り続けた。一年がすぎ、また一年がすぎ、気の長い彼のパトロンもさすがに手を引こうとした。でもカーターはあきらめなかった。自分の夢を切々と語り、資金を出してくれないなら、自分の蓄えを放出してでも続けるとパトロンのカーナヴォン卿を説得したんです。
そしてもう一年延長したその年、ついに探し当てたんです。謎中の謎とされていたツタンカーメン王の墓を。しかも、極めて珍しいことに未盗掘。有名な黄金のマスクをはじめ数々の副葬品と一緒にツタンカーメン王のミイラを掘り出した。最後の最後に彼は、考古学史に残る金字塔を打ち立てたんです。
すごいドラマでしょう。徒手空拳で人生を歩み始めて、夢を抱き、信じる道を進み、そして夢を実現させてしまう。
このドラマに幼い僕はコロリとやられてしまいました。「エジプトの研究者になる」そのとき、もう心に決めてしまったんです。

02

戦いのはじまり

でも、順調とはとても言えませんでしたね。そのころ研究者になるなら東大と相場が決まっていましたが、受験には何度も失敗。三浪した果てに入った早稲田でエジプト研究会を立ち上げたところ、30人も学生が集まってくれたのはいいが、資金もなければ、指導教授もいない。当然大学からも許可は下りない。反対する声ばかりが聞こえてきました。
洋書で古代エジプトを勉強する傍ら、いろんなアルバイトで資金を作ってはいましたが、仲間は一人、二人と抜けていく。ようやく指導教授を引き受けてくださる先生がみつかり、大学の総長に直談判して許可をもらえたのは、それから2年後でした。
初めて目にするピラミッドは、圧倒的な迫力でした。美術書などで知識としては知っていましたが、迫ってくるパワーはそんな知識を吹き飛ばしてしまうのには十分でしたね。
でもね、行くのが目的ではないですからね。感激よりも、むしろ、これから大変だぞと身の引き締まる思いでした。

意志と運

実際、本当の戦いはそこからでした。
発掘調査をするためにはエジプト考古庁から発掘許可をもらわなければいけません。でも、エジプト発掘の実績のある日本人なんて一人もいません。何度も説得に通いましたが、日本がそんなところで何をするんだ、そもそも古代文字が読める研究者がいるのか、遺跡保護のキャンペーンをエジプト政府が行ったときになぜ日本は調査団を送らなかったのか、と断られる。
ようやく許可が下りたと思ったら、その地域が紛争のために立ち入り禁止になる。資金不足も相変わらずで、エジプトの日本大使館のアルバイト勤務や、観光ガイドのアルバイトでその日その日をつなぐ。薄氷を踏むような日々が続きました。
発掘できるようになってからも、問題は次から次へとやってきました。考古庁の長官が代わり、日本嫌いで通っている人が新長官となったときは、もうだめかと思いました。恩師でエジプト調査の責任者でもあった教授がお亡くなられたときは、立ち上がったばかりの早稲田大学古代エジプト調査室が閉鎖寸前まで追い込まれました。
でも、あきらめたことは一度もありません。あきらめたらそこで終わりですから。それはきっと意志を持っていたからだと思います。なんとしてもエジプト学の先駆者になるという子供のころから抱き続けた意志です。
そうやって強く意志を持っていると、運にも恵まれるものです。たまたま飛行機で隣の席に座った方が、それまで会うことすらかなわなかった考古庁の長官だったり、古代エジプト調査室の幕引きをするためにエジプトまでやってこられた早稲田大学の総長が、我々が真剣に発掘に打ち込む姿を目にしたことで、一転擁護する側になってくださったりね。

吉村作治氏の代表的な発掘品

02

丘の中から現れた極彩色の絵

運といえば、我々調査隊の最初の大きな発見となった「魚の丘」の発見も、偶然の積み重ねがもたらした成果でした。そもそもこの場所を掘ることになったのは、戦争の勃発で当初予定していた場所が掘れなくなって、代替地として認められた場所だったから。それも、その丘からはやや離れた場所にあるローマ時代の建築物の全容を明らかにするのが調査の目的だったんです。我々にとって初めての本格的な調査対象です。
当初の目的がほぼ達成されたころ、現地の有力者と発掘労働者のトップがやってきて「この先に魚の丘と呼ばれる伝説の丘がある。あそこを掘ってみましょう」と熱心に勧めるんです。確かに雰囲気のある丘ではあるんですが、「私たちは調査のために来ているのであって、宝探しに来たわけではないから」と断っていました。でも彼らは入れ代わり立ち代わりやってきては熱心に魚の丘の発掘を勧める。それを聞いているうちに僕らの中にもなんだか確信めいたものが生まれてきました。
その日、作業をはじめてほんの数十分でした。極彩色の絵が描かれた階段が姿を現したんです。体の中から熱い血潮が湧き上がってくるような興奮でしたね。それは、その丘の上に立っていたはずの豪奢な建物に向かう階段の一部でした。描かれていた絵は外国人の捕虜を描いたもので、ツタンカーメン王の玉座の前にある足台にも同じような人物が描かれていました。いったい何のための建物だったのか、そしてこの美しい階段を歩いたのは誰だったのか、その謎に挑戦できるというだけで、胸がいっぱいになったものです。

生きた証を残したい

その後も我々の調査隊は多くの重要な発見を成し遂げてきました。探査衛星や電磁波地中レーダーなどのテクノロジーを発掘調査に持ち込んだのも我々が最初です。最近では2005年に、カイロ近郊のダハシュール北遺跡で未盗掘で損傷のない完全ミイラを発見することができました。ツタンカーメン王のミイラよりもさらに400年も古い世界最古級のものです。鮮やかな青の美しいマスクをつけたミイラは、考古学界のみならず世界中の注目を集め、テレビでも放映されたのでご記憶の方も多いかもしれません。戦後50年で発見された完全ミイラはほんの2、3例しかありませんから、これも大変貴重な発見です。
そして気がつくと、初めてのエジプト渡航から40年がすぎていました。エジプト学の先駆者になるという夢を携えてエジプトへ旅立ったとき、影すらもなかった日本のエジプト考古学は、多数の研究者が育ち、いまや立派に根付いています。2000年には早稲田大学エジプト学研究所も創設され、僕の描いていた夢は現実のものになりました。
古代エジプトの研究は確かに浪漫にあふれています。それは、砂の中に失われた謎を、いまの世界と結びつける作業です。それが解明されたときの喜びは格別です。
でもね、僕はエジプト考古学が日本に根付いたことのほうが何倍もうれしいんです。
人間は、生まれるときは自分の意志で生まれるわけではありません。でもこの世に生を受けたからには、生きた証を残したい。それが夢です。僕は、ときには意地になって夢に向かって歩み続けてきました。そして、数々の幸運にも恵まれ達成することができたのです。感性の尊重、想像力の解放を浪漫というならば、まさしくこれこそ浪漫だと僕は思うんです。
さっきお話ししたカーターのドラマには、もう少し続きがあります。彼は、後にツタンカーメンの大発見に対して報奨金をもらったんですが、パトロンだったカーナヴォン卿の未亡人にすべてあげてしまうんです。自分の手元には一銭も残さずにね。子供もなかった彼は、一人、屋根裏部屋で息を引き取りました。あれだけの業績を成し遂げた人なら、通りや町の名前にカーターという名前が付けられていても不思議ではないのに、どこにもありません。
彼は何も残さなかったんです。自分の名前以外、何も。
どうです。すごい人生でしょう。

03

サイバー大学学長(工学博士)

吉村作治(よしむら さくじ)

66年アジア初の早大エジプト調査隊を組織し現地に赴いて以来、40年以上にわたり発掘調査を継続、数々の発見により国際的評価を得る。07年10月には、エジプト学史上非常に珍しい「親子のミイラ」が埋葬されている未盗掘墓を発見し、大きな話題となった。07年開校の、株式会社立で日本初・完全インターネット講義による『サイバー大学』(http://www.cyber-u.ac.jp)初代学長に就任。「ミイラ発見!!―私のエジプト発掘物語│」他、著書多数。
公式HP:「吉村作治のえじぷとぴあ」 http://www.egypt.co.jp

(注)所属・役職および研究・開発、装置などは取材当時のものです。