Our Story
いろいろなミチ(道・未知)
島津の社員インタビュー
粉川 良平

ナノメートルの世界から
10メートルの世界へ

粉川 良平
分析計測事業部 事業企画部 戦略G

「らしさ」を貫いた学生時代

粉川良平さん。原子間力顕微鏡の分野で島津を有名にした立役者で、2021年5月、日本表面真空学会のフェローに就任した。産業界出身者としては2人目という珍しい存在だが、それには理由があった。 分野が違っても、どんなに偉い人に対しても、良くするためには忖度なく何でも話し、行動する。そんな粉川さんらしさがフェローという形になったのだ。
「島津の粉川だからできることがあるのであって、個人粉川としてではない。そういう意味で会社は有難い。でも『先生』と言われるのはなんだかなぁ」 そう照れる粉川さんはどんな人なのか、話を伺った。

現在は、神奈川県川崎市殿町キングスカイフロントで進む「Shimadzu Tokyo Innovation Plaza」開設プロジェクトを率いている。
「ずっと顕微鏡屋でナノメートルの世界をみてきたのに、いまは建築図面で10メートルの世界で話す。おもしろいものです。いい施設にしますよ。社員がここで働きたい、出張したいと思えるような拠点にする。アイデアはいっぱいあります」と目を輝かせる。

粉川さんは京都大学工学部を卒業後、東京大学大学院で学んだのだが、その大学院の二次面接で、ひと悶着があった。
「外部受験者で受かったのが自分一人だったようで、教授たちがずらりと並ぶ重厚な部屋に呼ばれたんです。『君を入れると内部生を一人落とさないといけない。君は本当に来る意志があるか』というんです。ちょっとカチンと来て、『貴学でどのような勉学や研究ができるか、どのような先生がおられるかまだ知らないので、相談させてください』と言ったら場がザワつきました。結局入ったわけですが、今にして思えば、会社員になっても偉いさんにたびたび呼ばれるのは、あの頃から変わってないのかもなぁと思います」

大学院では、今でいう産学連携拠点となっていた生産技術研究所に配属されたが、それまで遊んでばかりで朝決まった時間に学校に通ったことがなかったので戸惑ったという。だが、そう言いながらも電子顕微鏡を使った研究で実績をつんでいった。
「島津のライバル社製を使っていましたが、島津に内定が決まったことをライバル社の方に伝えると『それは脅威だね』と。小生意気な奴が競合に入るぞ。お手並み拝見、みたいな様子でしたね」

自分らしさ、考えを貫いてきた大学院時代だったが、地元を離れ、内部進学生ばかりのなか、孤独を感じることもあった。それを救ってくれたのが山の会だった。
「大学の生協の方などが参加する会で、いわば自分にとっての東京のお父さんお母さん。こんなやんちゃな学生が入っても、ふわっと優しく包んでくれる包容力で助けてもらいました。肩書きではない人間の魅力を教わりました」

画期的な原子間力顕微鏡を開発

1988年に入社し、「電子顕微鏡に分析がくっついたようなもの」の設計を担当。当時は新人教育というのはほとんどなく、入社半月後の4月半ばには図面を描いていた。

そんな粉川さんは、会社に入っても「らしさ」は失っていなかった。
お昼を食べて眠くなって、つい製図板につっぷして寝てしまったことがあったが、「起きたら『おはよう』と書いてあって」と笑う。

また、入社3年目の12月24日から1月14日まで会社を休み、地球一周クルーズで有名なピースボートに参加した。
船では、創設者の一人である辻元清美氏のほか、さまざまな著名人の講演を聞くことができた。また、乗船者は誰でも自分の講座を持つことができ、粉川さんもダム問題について講演した。

「本当は世界一周したかったけど、仕事があるのでアジアだけ。でも若手がこんなに休みを取れたのも、上司の理解があってのこと。尊敬していた人事部長からは顕微鏡の開発が予定通りだから良いと、そんな褒め方をされて嬉しかった」
と当時を振り返る。

ピースボート地球一周クルーズ。社会人でフルコースは難しいため、「アジア横断:冬休みコース23日間」に参加した。
ピースボート地球一周クルーズ。社会人でフルコースは難しいため、
「アジア横断:冬休みコース23日間」に参加した。
1990年12月31日 大みそか、船上での日の入り、南シナ海。
1990年12月31日 大みそか、船上での日の入り、南シナ海。
1991年1月12日 船上では著名人による講演会が多数開催された。
1991年1月12日 船上では著名人による講演会が多数開催された。
1991年1月14日 下船した船をボンベイで見送った。ここから飛行機で帰国した。
1991年1月14日 下船した船をボンベイで見送った。ここから飛行機で帰国した。

その後も顕微鏡一筋の島津人生を送るなか、「原子間力顕微鏡といえば粉川」というフラグが、社内だけでなく、社外でも知れ渡るようになっていった。

2005年、そのなかでもひときわ心を躍らせる開発に携わった。これまで難しかった大気中・液中で原子・分子を見ることができる原子間力顕微鏡の開発だ。 そのプロジェクトは科学技術振興機構(JST)の採択事業となり、リーダーを務めた。共同研究を薦めた大学の先生たちは、粉川さんのやんちゃさに賭けたのかもしれない。

(詳細は、「ぶーめらんVol.31『挑戦の系譜 世界を変える顕微鏡』に収録」)「ぶーめらん」31号の誌面
(詳細は、「ぶーめらんVol.31『挑戦の系譜 世界を変える顕微鏡』に収録」)
「ぶーめらん」31号の誌面

「国プロで開発した経験は、装置がどのように社会に役立つのかということを実感できた貴重な経験になりました。また、こういうニッチな業界だと、『あの人がやってるよね』という象徴的な人は、会社としてある程度必要だと思うんです。ユニークだったり、変わった人であっても、『あの人がやっていた装置でしょ』という名物的なもの。島津の原子間力顕微鏡については、少なからずそういう人にはなれたかなと思う」
そう言いながらも、名物を引き継ぐ後輩には、自分と同じである必要はない、その人らしさ、違う味を出していったら良いとつけくわえる。

6年かけた博士号

多忙を極めた国プロの最中ではあったが、神戸大の大西先生からの勧めで、2009年に神戸大学理学研究科博士後期課程に入学した。卒業まで6年もかかったが、それは国プロのせいではなかった。

最初の2年半は国プロの一貫で装置の良さを伝えるためのデータを取っていたが、その後は本業優先という約束と、論文を書くという重い腰と学生割引の魅力もあり、少しでも長く学生でいたいと思ってしまったのだ。 また、そんな気持ちを見越してか、大西先生から「『業務多忙のため休学』もできるよ」と悪魔のささやきがあり、結局半年ごとに6回休学届を提出し、結果3年休学していた。

その休学も時間切れで慌てていたが、またもや大西教授から「留年」というささやきが出た。
しかし、留年は授業料が余計にかかるため家族から怒られ、いよいよ復学。だが、2回の海外出張が入ってしまい、それを論文に取り掛かれない自分への言い訳にしてしまった。

時は過ぎ、いざやろうとしたが、今度は書くこと自体ができなかった。 まとまった論文というものは、一度内容を頭に呑み込んで、それを再構築して論理的に吐き出す作業だ。本業が多忙で、取り掛かっても細切れにしか書けず、どうしても登った山の1合目に戻ってしまう。

くしくもピースボート船旅と重なる年末年始に休みを取り、とうとうホテルに缶詰めになってやろうとしたが、今度は5年前のことを覚えていない。結局一からノートとデータと文献を読みなおさなければならなくなっていた。

締め切りまで残り10日くらいなると、いよいよ切羽詰まった体が危機感を感じて頭が冴えてきた。結局、その期間に集中して仕上げた論文で、粉川さんは博士号を取得した。

1991年1月12日 船上では著名人による講演会が多数開催された。
1991年1月14日 下船した船をボンベイで見送った。ここから飛行機で帰国した。
100ページ超えの博士論文(表紙)。謝辞にはありったけの感謝を込めた。自分の信じるところを強く持って

自分の信じるところを強く持って

最近は、部署を超えて悩みを聞く機会も増えた。同時に、これはどうなんだろうと思うことも増えたという。

「評価やルールを気にするあまり、ポイント稼ぎになってしまう人がいるのが気になります。『僕のやっていることは、〇○さんがやっている仕事のいくつ分ですか』なんていう。そんなの比べられるはずないじゃないですか。今は、何でもかんでも数値化・定量化せよと指導される。それが行き過ぎているんじゃないでしょうか」

「1年前の自分と比べたらいいんです。どれだけ成長できているかのほうがよっぽど大事でしょう。会社勤めはマラソンです。人には適材適所がある。短期の評価なんかを気にするな。自分の信念を持って、是々非々で判断しろと言っています」

粉川さんには、強烈に印象に残っている言葉がある。 矢嶋英敏元社長(故人 在任期間1998-2003年)からもらった言葉だ。

矢嶋社長との面談が時間切れで話が途中になってしまったが、矢嶋社長は次の移動の車に粉川さんを誘い、そのまま話を聞き続けてくれたという。

「そのときの車の中で矢嶋さんはこうおっしゃったんです。『私の顔色を見て言うことを変える人がいて困る。信念があれば、変わらないはずだ』と。まさに我が意を得たりです。自分の信じるところを強くもってほしい。「誰が言ったかではなく、何を言ったか」という矢嶋さんの言葉には、私も勇気づけられました。それこそが会社を健全に発展させていく道だと思います」

理想の引き際

今年で60歳。9月には一応の定年を迎える。旅が好きで、ゆっくり時間が取れたらシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断したいと話すが、しばらくは定年後も島津で働きたいと考えている。

「殿町プロジェクトが遅れたので途中で放り出すわけにはいかない。無責任なことはできないから。なにより面白いんですよ。ずっと顕微鏡をやってきましたが、殿町では全社部門や他の事業部も関係します。島津のいろんな人と知り合いたいと漠然と思っていましたが、みなさん島津愛があって、つくづく島津には面白い人が多いなぁと思います」

「殿町は、羽田空港からもすぐで、お客さんも大勢呼べる。立地は最高です。ただのオープンイノベーション拠点じゃなくて、企画展をやりたい。島津の歴史を取り上げたり、科学教室みたいなのもいいね。採用の会社説明会も、ここでやったら志望者増えますよ。そういうのが立ち上がるのを見届けて、もうちょっといて欲しかったと言われている間に辞める。会社を終えて残るのは集めたものでなく、周りに与えたものですから」

完成間近のShimadzu Tokyo Innovation Plazaを背に実はネクタイもSHIMADZUロゴ入りを着けるほど島津愛が溢れている
完成間近のShimadzu Tokyo Innovation Plazaを背に
実はネクタイもSHIMADZUロゴ入りを着けるほど島津愛が溢れている

殿町キングスカイフロントに見学に行くと、そこらじゅう粉川さんに挨拶する人だらけだ。いつものようにフラットに挨拶し、笑顔で会話している。
これまで会社に物申したことがたくさんあると言いながらも、どんなことがあっても真剣に取り組み、とにかく愛情を込める。でも、やんちゃ気質と夢を持ち続ける「らしさ」は失わない。
粉川さんに自然と人が巻き込まれていく理由がわかった気がした。

Shimadzu Tokyo Innovation Plazaは、2022年10月開所予定。

※登場する社員の所属・役職名は
記事公開当時のものです。