Our Story
いろいろなミチ(道・未知)
島津の社員インタビュー
古澤 一雄

型にはまらない人生

古澤 一雄
株式会社島津総合サービス リサーチセンター
1978年島津製作所入社

人生、楽しむことが大事

「人に喜んでもらえるのがうれしい。そう思うと一生懸命になれるんです」
島津総合サービスで分析機器ショールーム(サイエンスプラザ)の管理運営を務める古澤一雄さんは、そう笑みをこぼす。1953年生まれの65歳。その前半生は島津の現代史とも重なる。

1978年入社。就職活動時に〝マンモスではない企業〟を選びたかったのだという。
「大きな企業では自分が埋もれてしまう。自分が見出せなくなることを危惧したんです。
会社の中で自分の存在感を出したい。そのほうがやりがいを感じられると考えて島津を選びました。その前に第一志望の企業に落ちたことで得た縁ですが」

当時、オイルショックの影響で、世間には暗い影が伸びていた。求人数も非常に少なかったが、古澤さんにとって幸いだったのは大学、大学院で電気工学を専攻していたこと。当時、分析装置は順次マイコン(マイクロプロセッサー)の搭載を進めており、プログラミングの技術を持つ人材を積極的に登用していた。まだITという言葉もない時代のこと、プログラミングができる人は少なく、即戦力として採用され、開発に従事した。若い頃の古澤さんにとって、楽しむことはイコール目の前の仕事に打ち込むことだった。
「最初に開発に携わったのは臨床用分光光度計でした。当時プログラミングは、非常に手間のかかる作業で連日夜遅くまで働いたものです。でも、大学の延長のようで楽しかったですね」と充実した日々を振り返る。
そんな古澤さんに一つ目の転機が訪れたのは1991年。38歳で、アメリカSSI(Shimadzu Scientific Instruments, Inc.)に駐在した。
Windows®の登場が世を賑わしていた頃で、分析装置のプログラムもその対応を急がれていた。関連する技術情報はアメリカのほうが進んでおり、事業部の要求や仕様をSSIのソフトウェア開発技術者に伝え、開発の経過と結果をまた事業部に伝える橋渡し役を任じられたのだ。

「それまでのプログラムとは、発想が全然違いました。デスクトップにいろんなウィンドウを広げて、マルチタスクで行うというのは、いまでこそ当たり前ですが、私にとっては衝撃的でした」
Windows®以上に古澤さんに衝撃を与えたのは、アメリカ人の仕事観だった。
「アメリカ人は、『なんで土曜日に来てまで仕事をするんだ?週末は家族と楽しまないといけないでしょう』というんです。日本での私は、仕事のために人生があるくらいの勢いで働いていましたが、アメリカでは人生を楽しむために仕事がある。まったく逆なんです。カルチャーショックでしたね」
郷に入れば郷に従えで、古澤さんは土日、家族と過ごす時間が増えた。大学時代から続けていたボーイスカウトのリーダーを、アメリカでも買って出て、子どもと共にアメリカのコミュニティに入っていった。

1992年SSIの同僚と(日本とSEGからの出張者と共に)
1992年SSIの同僚と(日本とSEGからの出張者と共に)
1993年フロリダへ家族旅行、NASA基地にて
1993年フロリダへ家族旅行、NASA基地にて

古澤さんが好きな言葉がある。
「『人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう』。日本のボーイスカウトを創始した後藤新平さんがモットーにしていた言葉です。ボーイスカウトは目上の者が目下のお世話をするというのが伝統です。そうやって自然に人を育てるという文化を身につけていくんです。その考え方がとても好きで長くリーダーを続けていたことが、地域に早く溶け込むという意味でアメリカでも幸いしました」

1965年初めてのボーイスカウト制服を着て
1965年初めてのボーイスカウト制服を着て

眠れる獅子を起こさないで

1995年帰国、1996年からは東京に単身赴任し、分析機器事業部でマーケティングの仕事に携わった。新しい開発のための市場探索が主な任務で、(社)分析機器工業会や(社)分析化学会に頻繁に顔を出し、他社の技術者と情報交換を重ねた。それは、古澤さんに外から島津を見る機会を与えることになった。
「工業会で出会ったある競合他社の人から、『島津は眠れる獅子。お願いですから、ずっと眠っていてくださいね』と言われたんです」
そのときは、そんな見方もあるのかくらいにしか思わなかったが、数年後、会社を揺るがす出来事が起こり、それは古澤さん自身の人生にも大きな影響を及ぼすことになった。

2002年田中さんのお供で首相官邸訪問
2002年田中さんのお供で首相官邸訪問

2002年10月9日、田中耕一さん(現シニアフェロー)にノーベル賞受賞の連絡があった。島津にとって素晴らしいニュースではあったが、にわかに大きな注目を集めたことで、上へ下への大騒ぎになった。田中さんをどう守っていくかが緊急課題となり、古澤さんがサポート役として指名されたのだ。

「実は、その直前、分析機器工業会への出向を志願して認められたばかりだったんです。でも、ノーベル賞のおかげで、私の人生が、がらっと変わってしまいました。田中さんほどじゃないですが」
そこからは事務方として社内に新設される田中耕一記念質量分析研究所の立ち上げ、田中さんが研究しやすいよう環境を整備することに奔走した。そしてある程度、研究所が軌道に乗った2008年、古澤さんは自分の人生にひとつの決断を下した。55歳で依願退職したのだ。

観光ガイドへの野望

「人のお世話にならぬよう」という後藤新平のモットーが、頭をよぎったこともあったかもしれない。
「居座るというのは嫌いです。私自身若い頃は、社内の年長者に老害と思われる人が大勢いると思っていましたね。ところがそのうち、自分がその方向へ歩んでいると思うようになりました」と打ち明ける。
一方で、古澤さんは大きな野望を胸に秘めていた。長く会社勤めを続けているうちに、組織や会社の力を借りないで自分を試してみたい、そう思うようになったのだという。
「以前から、人生は75歳までと決めていました。その年までは何らかの現役でいようということです。そこまで残り20年。新しい人生をスタートするにはギリギリのタイミングだったんです」

古澤さんが目指したのは観光ガイドだ。学生時代から英語が好きで、京都で長く暮らし愛着もある。この町を外国人観光客にアピールできたら、素晴らしいじゃないかと夢を描いたのだ。さしあたって普通自動車第二種免許を取得してタクシー会社に就職した。おもてなしと京都観光ガイドを実践的に学べて一石二鳥だと思ったのだ。
当然のことながら家族は反対した。
「ガイドになりたいんだというと、妻は、展望がないとけんもほろろでした。タクシー運転手を始めると、毎日、事故をしないで無事に帰ってくるか心配と言われました」
初めは腕に自信があったが、乗務を続けているうちに、いつか自分にも事故が降りかかってくるのではないかと運転が怖くなってきて、1年8か月でタクシー会社を退職。副収入目的でネット通販サイトも開設していたが、赤字転落を機に、1年で撤退した。

老兵は死なず、まだまだやりますよ

いったん夢の話はおいておいても、まずは日々の生活の糧を確保しておかなくてはならない。10か月ほどハローワーク通いした後、ようやく京都大学の時間雇用職員として採用されて、医学部の疫学調査チームに加わった。若い頃に取得していた第二種情報処理技術者の資格が採用の決め手になったのだという。自分のスキルを活かして社会に貢献できる場所ができたと喜んだのもつかの間、2年半後、国の予算削減でスタッフの整理が始まり、3か月後の退職を言い渡された。だが、退職予告後から「いろんなところに種を蒔いた」ことが幸いし、人づてに島津総合サービスの先輩から、退職日前日に声が掛かり、京都大学を辞めたその日の夕方には、面接を受けていた。まったくへこたれないのである。
「ちょうどそのころ島津の製品の知識と歴史に詳しい人材を求めていたということで、タイミング的にもラッキーでした。捨てる神あれば、拾う神ありです」
現在は、本社三条工場内にある分析機器ショールーム「サイエンスプラザ」を訪れる年間7500人のお客様への応対するスタッフを束ねる。来客の約3割は外国人で、英語で応対する機会も多い。目指していた観光ガイドと似ていなくもない。
島津総合サービスの新規事業として、製品がRoHS指令に適合しているかどうかを分析するサービスも立ち上げた。いよいよ意気盛んである。
長く島津に籍を置き、内と外から見てきた古澤さんに、いまの島津はどう映っているのだろうか。
「私が入社した当時は、関西の1地方企業だったのに、田中さんのノーベル賞以降、遠く世界からもこの会社で働きたいと人が訪れ、自然と優秀な人が集まるようになりました。変わったなと思います。変わらないのは、個人を型にはめることなく、自由な発想を尊重するところでしょうか。私も自由に開発をやらせてもらいましたし、いまもそういう雰囲気はあると思います。もっとも、そのベクトルがばらばらのままでは、力になりませんから、束ねる経営陣は大変でしょうね」
「でも、そういう力が会社を変える力になってきたんです。140年、150年も続く会社は、珍しいですが、ずっと同じことをやっていたら決して続いてなかったでしょう。少しずつ新しくしてきたから、続けてこられたんです。飛躍すぎると転ぶかもしれませんから、そこも見極めが大切です」
どことなく自戒も含んでいるようにも聞こえるが、古澤さんは夢を決してあきらめたわけではない。
「いまは、フルタイムで働いていますが、少ししたら週3日くらいに勤務時間を減らして、英検1級を目指し、ボランティアで英語観光ガイドを始めてみようと思っています。自分に起業の才覚がないことを悟っているので、これから先、人生を楽しむことを優先します」

2018年外国からのVIPに英語で説明中
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※登場する社員の所属・役職名は
記事公開当時のものです。