Our Story
いろいろなミチ(道・未知)
島津の社員インタビュー
大島 恵美子

両立という言葉
は使わない

大島 恵美子
分析計測事業部 営業統括部
横浜支店営業課 第1グループ
2002年入社

記憶がない5年間

「営業が好きなんです。人間関係をつくって、コミュニケーションをとっていくところが面白いんですね」
と、楽しそうに語る大島恵美子さんは、2002年、島津では当時まだ少なかった女性の営業職として入社。しかし、最初から「営業が好き」とはいえなかったという。
大学は農学部の食品栄養学部で学んだものの、分析装置に親しんでいたというわけでもなかった。
「研究している同級生の姿を見ていて、コツコツ努力する研究職は向いていないと思ったので、実は消去法で営業職に的を絞りました」

島津を受けたのも母親に勧められたからで、「関西の企業なら実家から通えるでしょ」というのがその理由だった。
しかし、その願いは早々に絶たれた。研修が終わって告げられた配属先は横浜支店。縁もゆかりもない土地で、初めての一人暮らしをすることになったのだ。

新人研修はあったものの、扱う製品の難しさにも閉口した。「分析機器にはなじみがなかった上に種類が多く、カタログを見ても何が書かれているかさっぱりわからない。初めて先輩に同行して、お客様とのやりとりを聞いたとき、『これ日本語?』と思ったほどです」

仕事内容の想像以上の専門性の高さに、「来るところを間違えた。人生の岐路で安易な選択をしたバチが当たった」と後悔したという。

さらに印象深い出来事があった。ある時、ある男性の先輩から、「女性の営業はあまり長く続かない」という話を聞いたのだ。当時の島津はまだ女性営業のライフイベントを支える仕組みや風土が未熟であったこともあり、結婚や出産を機にほとんどの女性が営業職を離れていた。どの支店も女性営業と聞いただけで尻込みしてしまう、そんな時代だったのだ。

自分が思い描いていた営業という仕事像が崩れていき、「この会社に長くいられないかもしれない」という危機感が日増しに強くなっていった。
営業はやりたかったが、覚悟の甘さ、現実の難しさ、女性営業の実情などから悩み続け、最初の5年間は記憶があまり無いという。

「もうとにかく開き直って、『やるしかない!』と思って取り組んでいました」、と当時を振り返る。
まずは優秀な職場の先輩のやり方を真似ることから始めた。そして、知識不足をカバーするために、プロダクトマネージャーをはじめ製品に詳しい人にお客様先へ同行してもらい、また自身でも、製品の取扱説明書を読んで勉強する、など、できることを考え、実践し続けた。するとこれらの努力が少しずつ実を結び、徐々に成果が表れ始めた。

「できない私」を受け入れる

仕事の常として、キャリアとともに仕事は複雑になり、量も増えていく。大島さんも次第に多様な仕事を任されるようになっていった。だが、入社当初に抱いた「この会社に長くいられないかも」という危機感は相変わらずまとわりついており、強い焦りから、「がんばらなきゃいけない、できないと言ってはいけない」と思い込み、任された仕事を一切断ろうとしなかった。その結果、大島さんは精神的に追い込まれることになってしまった。

「『できない』と言えなかった結果、入社6~7年目頃には自分のその時の能力以上の仕事まで抱えるようになっていたんです。そこでさすがに限界が来て、上司に『もうできません。やめたいです』と訴えました」

すると、思いがけない言葉が返ってきた。「全部やれとは言っていない。自分の意見をしっかり持ち、チャレンジできない時はできないと言えばいい」。
これで目が覚めたという。

「『できない』って言っていいんだと知りましたし、『できない私』を自分で受け入れられるようになりました」

さらに印象に残っている上司のひと言があるという。 「『いつも謝るだけ。頑張る以外にないの?3日休んでいいから考えろ』って言われたんです。3日休んで自分を振り返ったことで吹っ切れました」
これをきっかけに、「無理やり頑張る」から、「できないなら、誰かに相談してみよう」と発想を転換できるようになった。困ったときは一人で抱え込まず、すぐに上司や周囲に相談する、その結果、より周りが見えるようになり、仕事の流れも読めるようになっていくと同時に、営業という仕事がどんどんおもしろくなっていった。

好きな仕事を続けたい

入社8年目にはスキルも身につき、経済的にも精神的にも自立した女性となっていた。しかし、30歳を迎えた頃、ふと自分自身を振り返る機会があった。
「毎日同じメンバーで仕事して、残業して、同じ人たちと飲みにいってばかり。これを繰り返していたら、私の人生、会社で終わってしまうんじゃないかって」
そこで一念発起。毎週金曜日は社外の人と会うと決め、上司に「私、残業やめます」と宣言した。
「あっさり『いいよ』と言われて拍子抜けしました(笑)」
そして、その社外活動で現在のご主人と知り合い、結婚。やがて妊娠した。大島さんは職場への今後の対応を早めに相談するために、妊娠がわかってすぐに上司に報告したという。

「相談したのが営業車の中だったのですが、その移動の最中に出産予定日から逆算したスケジュール出しや人員配備、育休取得の意思確認、さらには翌日から営業車の運転をやめてタクシーを使うようにという細かなところまで気を配って段取りを組んでくれました。その後、つわりが重くて長期間会社を休んだのですが、その間もだれも不満を言わずに仕事を代わってくれました。全体を考えた上司の配慮と職場の仲間の理解のおかげです」

そしていよいよ産休。上司や職場への感謝もあり、どうしたら復帰後も辞めずに営業を続けられるか、家族の生活環境をじっくり考えた。
結果、「この環境では、子どもを育てながら好きな営業を続けるのは無理」と悟り、引っ越しを決めた。「保育園、病院、預かり時間の長い学童保育、すべてが会社から徒歩圏内という立地です。好きな仕事を続けられるよう考えられる手を打つ。私の場合、営業を通じて学んだことが実生活に活きている気がします」

まず、しあわせな人になること

女性として営業をしながら、子育てもしている。そう聞くと、仕事と育児を両立するスーパーウーマンのようだが、本人は「両立という言葉が嫌い」という。「両立なんてとんでもない。周囲の理解と協力のおかげです。仕事も育児もどちらも完璧ではありません」

出産前と出産後、仕事に復帰してからで、変わったことを聞くと、こんな答えが返ってきた。「あらためて、『いろんな人に支えてもらっている』と再認識しました。私は、子供が風邪をひいたら出社できないこともあるし、自分がその風邪をもらうこともある。ある朝、機器の搬入があり、現地でトラックの到着を待っている時、ふと、『今日、無事に出社できて良かったな、製品が無事に届いて良かったな』と思ったんです。工場で作ってくれている人がいて、それを出荷してくれる人がいて。働いている人やその家族が健康で、だから、こうやって仕事が成り立ってるんだなぁと。余裕のない20代では気が付けなかったことを考えるようになりました」

いまは17時半には退社し、飲み会に出ることもなくなった。出産前と同じような成果を出すことが難しい状況のなか、好きな営業を続けられているのは、周囲とコミュニケーションをしっかりとることを心がけているからだ。上司や同僚、取引先の担当者など仕事に関わる人たちには、自身の勤務時間を伝え、協力をお願いしている。また、仕事を依頼された際は、スケジュールを立て、「この日までかかりますが、大丈夫ですか」と確認している。

中堅社員となり、人生の先輩としての貫禄も身についてきた。いまでは後輩の女性営業から相談を受けることも少なくはない。そんなある時、後輩から、「私が今妊娠したって相談したら、大島さんはどう思いますか?」と聞かれた。「私、こう伝えたんです。『何言ってるの。おめでとうでしょう。あなたのしあわせが一番大事。子供を無事に出産して、また仕事も頑張りたいって思ったら戻ってくれば良いの。その時は皆で助けるから』と。そしたら彼女も安心して前を向けるようになってくれたみたいです」

まず、しあわせな人になる――そのためにどう生き、いかに仕事と向き合うか。大島さんはこう考える。

「そもそも仕事は人生の中の一つの要素であって、自分=仕事じゃないし、仕事=人生じゃないと思うんです。しあわせな人生を送ることを最初に考えてほしい。お客様だって、心に余裕がない営業マンより、しあわせな営業マンから買いたいと思うものじゃないでしょうか」

一人ひとりが考え、その生き方を認め合う。ダイバーシティとは何かという問いに対する一つの答えを、大島さんは身をもって示している。

※登場する社員の所属・役職名は
記事公開当時のものです。