Our Story
いろいろなミチ(道・未知)
島津の社員インタビュー
丸山 和也

生き方の選択

丸山 和也
製造推進部 企画グループ
1992年入社

男性社員で初の育休取得

「赤ちゃんの最初の8週間って、絶妙ですよね。『え、こんな弱々しい生き物、生きていけるん?』というところから、ぐんっと成長して、人間らしくなる。この時間は、一緒にいて損はないと思いますよ」
丸山和也さん。製造推進部企画グループのグループ長として、全事業部にまたがる製造体制、運営を企画している。
丸山さんは、2007年、島津の男性社員で初めて育休を取得した。男性の育児休職制度自体は、1992年からあったが、丸山さんが取ろうとするまで、誰も申請することはなかった。職場は、出産育児は女性のイベントという空気が濃く、育休を取りたいと言い出したときは、当然、周囲も首をかしげることが多かった。

それを押してまで育休を取得したと聞けば、どれだけ家族思いの人なのかと想像するかもしれない。しかし、そう思って丸山さんと話すと、肩透かしにあう。
「父親は九州男児で、母親は基本的にずっと家にいる。それが当然の家族で育ったので、まさか自分が育児に関わるようになるなんて、全然思っていませんでしたね。人生の一大イベントを、自分も当事者として体験したいという好奇心が込み上げてきたんです」

対等のパートナー

大学時代に、丸山さんは、自身にぴったりの女性と出会った。
「彼女は、当時、一生誰とも結婚するつもりはなかったそうです。子どもは欲しかったけど、妻という肩書きに縛られるのはいやで、自分の足で歩いて生きたいと思う女性。そういうところが私には魅力的に映って、彼女もそういう人とならいいかと」
「夫婦というよりもパートナー」と、奥さんとの関係を評する。一緒に生活は営むが、それぞれが自分のことは自分で完結する。夫婦別姓を貫くことも決めた。旧来の価値観に縛られない生き方を選択したのだ。

しかし、実態は、そうともいえなかったと振り返る。島津での最初の配属は工場の品質管理課。もともと忙しい職場だが、仕事を覚えるにつれ、責任も大きくなり、気が付けば月に60時間残業し、出張で家を空ける日も増えた。一方、教員を目指していた奥さんは、折からの就職難で教員採用がパタリと止まり、何年も講師を続けながら採用試験を受けることになってしまった。結果的に、家事は「彼女に甘えることが多くなっていた」という。その後、奥さんの教員採用が決まり、生活も落ち着いてきて、そろそろ子ども作ろうかという話が湧いてきたが、家事のバランスは奥さんに傾いたままだった。
「僕は生活を切り替えようともせず、家族を増やそうといっていた。現実がわかっていない状態ですよね。彼女は大変だったと思います」
奥さんの妊娠がわかったのと、分析計測工場第一生産課に異動したのは、ほぼ同時だった。新しい職場に着くなり、育休取得に向けた雰囲気づくりに奔走した。上司に育休取得を宣言し、スケジュールを立てる話になれば、出産から8週間は自身がいない前提で交渉。同僚には「島津で初めての取得だから成功させないとね」と、触れ回っていった。半ば強引にでも道をならしていく必要があったのだ。
そして、長男が誕生。慣れない家事、育児に奔走し、8週間はあっという間に過ぎた。

本当の苦労

復帰してから残業は極力減らし、19時には家にいるように心がけた。奥さんも復職し、家族3人の生活は一見順調に流れていくように見えたが、問題は次から次へと降ってきた。まず奥さんの勤務先が変わって、さらに朝が早くなった。保育園へ送っていると始業時刻に間に合わない。会社からは残業ゼロ指示が出て、昼間もまったく余裕がなく、帰っても家事が山積み。さらに、管理職試験に合格し、自身の仕事も大きく変わることが予想された。夫婦は二人とも余裕がなくなり、家には殺伐とした空気が流れ始めた。
「今思えば、自分には仕事があるんだからという欺瞞があったんです。一生懸命やってるんだから成果は出るだろうし、家族だからなんとかなるだろうと甘えて、自分を変えないでもなんとかなると思っていたからなんです」
つらいなら自分を変えればいい。そう思い直して、育児時短を申請し、車通勤に切り替えた。職場でもたびたび事情を説明し、朝は育児分担しているから定時には間に合わないということを納得してもらった。だが、それでも余裕はなかった。
「2011年に二人目が生まれた頃がいちばんしんどかったです。任せられる仕事はすべて任せる。自分の時間を確保することを徹底して、どうにかこうにか時間を作ったのですが、それでも家に帰ると当たってしまうことばかりで」
お互いを尊重しながら一生を共に過ごすパートナーと決めた人と、幾度となくぶつかってしまう。それでも子どもは成長していく。家族ってなんなんだろうと自分に問いかけることも増えた。

「家族」になる

管理職になって50人の部下を束ねるようになったことは一つのきっかけだった。
「こういう立場になると、『なんで部下や職場は当たり前のことができないんだろう』『なんで毎回言っているのに伝わってないんだ』ということが出てきます。それでも、会社には経営理念だったり、社長の期頭方針などで、目標を言ってくれたりするので、まとまりが保てるんです」
「そういう会社での立場と家庭とがふとリンクして、やっと気が付きました。そもそも家庭って設立の意図とか、理念、方針もなければ、今期の目標もMBO面接もない。つまり何も共有していないに等しいのに、家族だから『絶対分かってくれている』『なんで分かってくれへんの』みたいな甘えが出てしまっていた。それではうまくいくはずがないですよね」
家族ってなんなのか。その答えは思いがけないところからもたらされた。
「『仕事が忙しくてさ』とつい息子にぐちったら、『だったらこうしたらどう」とヒントをくれたんです。それだけでものすごく気持ちが軽くなって。このときほど家族の一体感を感じたことありません。楽しいことも、苦しいことも共有する。それでこそ家族なんだと思い至りました。」

一人ひとりの生き方改革

丸山さんが育休を取った2007年から、10年が過ぎ、会社の雰囲気は変わってきたと丸山さんは感じている。まだ少人数ではあるが、いつも育休中の男性社員がおり、当時は認められなかった旧姓の名刺(丸山は旧姓で、戸籍上の名前は奥さんの苗字である柳田)も持てるようになった。

「人事管理システムなども、時代時代に応じて新しいことを取り入れて進歩しています。それが、例えば別姓で生きていこうといった多様な生き方を許容することにつながっています。だが、個々人の意識がついてきていないような気がする」と打ち明ける。

「今後、工場はロボット化が進み、VRやAIなどの新技術が普及して、いろんな働き方が選べるようになるでしょう。何も毎朝出社してこなくてもいいし、出張続きの旅暮らしを選んでもいい。そのとき、あなたはどういう生き方をしたいのか。例えば、僕が上司でそう問いかけた時、部下が『私はこう思います』『こう生きていきます』と言ってくれれば、それに合わせてシステムを作っていきたい。上から働き方改革を進めるより、一人ひとりが生き方を改革する。そういう時代がもう来ていると思います」

※登場する社員の所属・役職名は
記事公開当時のものです。