dna 島津源蔵のDNA

泡1 泡2 泡3

島津源蔵のDNA

源蔵から今に受け継ぐ
挑戦のDNA、その軌跡

技術立国を目指し、
理化学器械の製造事業を興した
初代源蔵。
さらに、その息子3人が事業を拡大。
世の中が求める技術や製品を
生み出すべく挑戦を続け、
現在まで受け継がれている
島津のDNAの軌跡をたどります。

歴代の島津源蔵
SHIMADZU DNA SHIMADZU DNA

島津家のルーツ

創業者の祖先と薩摩の島津義弘公の縁。300年の時を超えて新たな歴史が紡がれていきます。どのような世の中だったのか、創業の前夜を紹介します。

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part1 島津家のルーツ
九州を代表する武家たる島津家との縁

「島津製作所」という社名を聞いて、「戦国武将の島津家と関係があるのだろうか」と思われる方は少なくないと思います。そのことにも触れながら、島津製作所を創業した初代島津源蔵のルーツについてご紹介します。

話は、源蔵が生きた時代より300年ほど前の16世紀後半までさかのぼります。この頃、薩摩(現在の鹿児島県辺り)の武将だった島津義久は、九州全体を支配下にすべく勢力を広げていましたが、豊臣秀吉の九州平定により臣下になりました。1586~87(天正14~15)年頃の出来事です。

その数年後、義久の弟の島津義弘が上洛した際に、秀吉から播州(現在の兵庫県南西部)の土地を新たな領地として与えられます。京都から薩摩に戻る道中、義弘は拝領した地に立ち寄ります。そのとき当該地で以前から暮らし、義弘を世話したのが、創業者島津源蔵の祖先にあたる井上惣兵衛尉茂一という人物です。井上家は秀吉を支える黒田家に仕官する家柄でした。

惣兵衛は検分の手伝いや身の回りの世話など、島津義弘に献身的に尽くしました。義弘は感謝の証しとして、島津の姓と島津製作所の社章になっている丸に十字(くつわ)の家紋を贈ります。これ以降、井上惣兵衛は島津惣兵衛を名乗るようになりました。その後、黒田家が国替えや関ヶ原の戦いでの貢献により筑前(現在の福岡県辺り)を拝領するといった動きのなかで、惣兵衛もこの近辺に移り住み、島津家はこの地で時と世代を重ねます。

初代島津源蔵
初代島津源蔵
源蔵の父利作(清兵衛)、京へ上る

多くの時が流れた1813(文化10)年頃、島津惣兵衛を始祖として9代目にあたる島津利作は、若くして姉婿に家督を譲り、福岡から京都に上ります。そして名を清兵衛と改め、西本願寺近く(醒ヶ井魚棚上ル)で仏具三具足(香炉・燭台(しょくだい)・花立)の製造を始めます。清兵衛は二男一女をもうけますが、後に当社島津製作所を創業する次男源蔵は1839(天保10)年に誕生します。

源蔵も父清兵衛について、幼少の頃より鋳物や金工の技術を習得しました。兄勇助が清兵衛の後を継ぐため、1860(万延元)年、のれん分けにより源蔵は木屋町二条で生活を始めました。

源蔵が独立した江戸末期の京都は、幕府の改革や倒幕を目指す者たちが集まり、ひどく混乱した状態にありました。1864(元治元)年の禁門の変では激しい市街戦が行われ、1868(慶応4)年には戊辰戦争の皮切りとされる鳥羽・伏見の戦いが起こり、京都は荒廃していきます。

同年、明治時代となり、翌年には天皇も京都を出て東京に入ります。遷都に合わせて、貴族の住まいや事業者の拠点も東京に移る動きが顕著になります。

創業当時の島津製作所
創業当時の島津製作所

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京都とともに歩み
チャンスをつかんだ初代源蔵

明治維新後の京都で、科学と産業の新たな風を受けた初代源蔵。
近代技術と出会い、外国人技術者から学んだ知識をもとに
島津製作所を創業します。

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京都とともに歩みチャンスをつかんだ初代源蔵 京都とともに歩み
チャンスをつかんだ初代源蔵
日本の進むべき道は科学立国、島津製作所を創業

苦境に陥った京都ですが、第2代京都府知事の槇村正直、蘭学に通じた医師であり化学者の明石博高(ひろあきら)らリーダーたちが再興に向け動き始めます。

起業の奨励や事業の誘致などを後押しし政策面から産業活動を活発にしていく役割を担う勧業場。近代の科学技術を学び実験を行う舎密(せいみ)局(今日で言う工業試験場や産業技術研究センターなど都道府県が設置する専門機関に相当)。輸入薬品の検査を行う官立機関の司薬場。こういった機関の施設が木屋町二条界隈に次々に設けられていきます。いずれも源蔵の住居であり仏具製作を行っていた工房の目と鼻の先でした。

眼前で展開されるこうした動きに触発され、人を介して明石らと懇意になった源蔵は、舎密局への出入りを許されます。局にとっても、作業場も近く好奇心旺盛、鋳物に通じていて手先が器用な源蔵は、西洋から次々に導入される器械や器具の修理やメンテナンスを任せるのにうってつけの人物でした。

源蔵は、持ち込まれる器械類について、構造や動作の仕組みをどんどん学び吸収していきます。やがて、これならば自身でもある程度作ることができる――そんな手応えを持つに至り、1875(明治8)年3月31日、理化学器械製造を生業とすることを宣言します。島津製作所創業の瞬間です。

舎密局
舎密局
外国人技術者から進んだ知見を学ぶ

金工にも明るく研究熱心という強みを備えていた源蔵にとって、さらに幸運だったのは、西洋の先進的な技術に通じた2人の外国人と出会い、指導を得られたことでした。

ヘールツは舎密局内に設けられた司薬場(輸入薬品の検査のために明治政府が設立した官立の薬品検査機関)が雇い入れたオランダ人薬学士でした。司薬場にいたのは1年半ほどでしたが、源蔵はその間に彼から冶金(やきん)術などを学びます。その技術を生かして源蔵は錫(すず)製のブーシー(医療現場で用いる拡張器・ゾンデ・細管)を製作し内国勧業博覧会(第1回、1877〔明治10〕年)に出品。高い評価を受け褒状を授与されています。

ヘールツが京都を離れた後に、舎密局は新たに指導者としてドイツ人技術者のワグネル博士を招聘します。彼は、数学や博物学、物理学、地質学、結晶学、機械学など幅広い分野に通じ、理化学の講義のほか、工業化学製品の製造技術等について指導しました。その際に、使用する器具の組立や器械の修理を、すぐ近くで店を構える源蔵に依頼するようになりました。

2人は親しく交流するようになり、ワグネルは理化学器械の作り方や仕組みについて自らの知識を源蔵に伝えます。また、自身が欧州から持参した足踏み式木製旋盤の使い方を源蔵に教えます。彼が舎密局にいたのは約3年間でしたが、京都を去る際に源蔵に譲ったその旋盤は、島津製作所の創業記念資料館にて今日まで大切に保存されています。

ゴットフリード・ワグネル博士
ゴットフリード・ワグネル博士
理化学器械の製作に用いた足踏み式木製旋盤
理化学器械の製作に用いた足踏み式木製旋盤

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日本の民間で初の軽気球飛揚、
長男梅治郎も成長

京都御所で軽気球を飛揚させた初代源蔵。その技術力に
多くの人々が驚きました。そして、若くしてその才能を開花させた
長男の梅治郎。父とともにさらなる発展を築きます。

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日本の民間で初の軽気球飛揚、長男梅治郎も成長 日本の民間で初の軽気球飛揚、
長男梅治郎も成長
軽気球を京都の空に飛揚させ一躍時の人に

1877(明治10)年12月には、島津源蔵の名を一躍世に知らしめる大事件がありました。彼が製作した軽気球が、4.8万人が集まる京都仙洞御所広場にて飛揚に成功し、皆の喝采を浴びたのです。

発端は京都府からの依頼でした。

京都府知事の槇村やそれに共鳴、賛同する者たちは、高度な技術教育だけでなく、その段階へとつながる大元の初等教育から力を注ぎました。学制発布より3年も前の1869(明治2)年に、64もの小学校を全国に先駆けて設けたのはその証しといえるでしょう。

「理化教育に対する府民の関心を一層高めるために、人を乗せた気球を上げたい。それを作って欲しい」。源蔵がそれを聞いたのは同年初夏で、イベントの日程も既に決まっていました。製作期間は数カ月しかありません。

西欧の絵で見たことがあるくらいで、役立ちそうな資料もほとんどないなか、源蔵は試行錯誤を重ねます。最も頭を悩ませたのが、水素ガスを注入する球体をどのような素材で作るかでした。色々と試みた末、ダンマーゴムを荏胡麻(えごま)油で溶かして薄絹の羽二重に塗ったものが、気密性や軽さという点で最善でした。それでも得られる浮揚力は十分とは言えず、取引先の従業員で最も体重の軽い人に乗ってもらうことにしました。

開催日の12月6日、円形に並べた酒樽の中で鉄くずに希硫酸を注いで発生させた水素ガスが、鉄パイプで繋いだ中央の大樽を介してバルーンに充填(じゅうてん)されていきます。見物客が見守るなか、軽気球は浮き上がり、約36mの高さまで上昇しました。この実験の成功は、多くの人々に島津の技術力を知ってもらう機会となりました。

軽気球試験之図
軽気球試験之図
若くして才能を開花させた梅治郎

源蔵の元には、器械類が修理のためにしばしば持ち込まれました。それらに非常に興味を示したのが、1869(明治2)年に生まれた長男の梅治郎でした。家の手伝いに追われ、学校で学んだ期間は1年半ほどでしたが、理化学器械の原理を説明したフランス人ガノーの著書(原書)を京都府(学務課)から借り受け、付図だけを頼りに2年ほどかけて、そのほとんどを解読してしまいます。それだけではありません。そのようにして得た知識を元に、十代半ばにして起電機を自作してしまいます。

それまで卓上で電気の発生を実現するものとしては、ホルツ式摩擦起電機がよく用いられていました。ガラス製の円板を高速回転させ、それと対に固定された円板に取り付けられた誘導子との相互作用により発電するものです。これを改良するものとして、イギリスのウィムシャーストが発明したのが、円板2枚を逆方向に回転させ、より高電圧を得られるウィムシャースト式感応起電機です。梅治郎はこれを製作して京都博覧会に出品し大人たちを驚かせます。

そのような卓越した素養と探究心を持ち合わせていた梅治郎は、父とともに次々に理化学器械を生み出し、島津製作所の事業を盛り立てていきます。

若い時の梅治郎
若い時の梅治郎
ウィムシャースト式感応起電機
ウィムシャースト式感応起電機

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初代源蔵の想いを継いだ
梅治郎が二代源蔵に

初代源蔵の志を受け継ぎ、二代源蔵となった梅治郎。
蓄電池に興味を持ち、X線写真の撮影にも成功します。
科学技術の進展に大きな功績を残していきます。

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part4 初代源蔵の想いを継いだ
梅治郎が二代源蔵に
社会ニーズに応えるべく蓄電池開発に注力

少し時代を戻し、1886(明治19)年、初代源蔵は、理化学に関する最新の学説や情報を掲載した雑誌「理化学的工芸雑誌」を発刊し、業容も発展していきます。製造業を営む一方で京都の師範学校(教師の養成機関)の教員を委嘱され、翌年からは梅治郎が教壇に立ちました。

その頃、2人は同志社大学で理科を教えていた外国人宣教師のゲインズと知り合います。ゲインズは、1889(明治22)年にアメリカに帰国する際、学校に残すもの以外の処分を懇意にしていた初代源蔵に相談しました。その中にデシャネル著「自然哲学(A.P.Deschanel:Elementary Treatise on National Philosophy(Translated by J.D.Evert))」と題する1冊がありました。初代源蔵は、この中で、今まで自分が製造してきた一次電池と違う様式の蓄電池の図を見つけました。すでに1883(明治16)年頃には、日本でも鉛を原料とする本格的な蓄電池の試作がなされていましたが、いつしか蓄電池の研究はまったく途絶えていました。「自然哲学」には、製作方法まで書かれていなかったため、ホプキンスの「実験科学(Experimental Science)」を頼りに、初代源蔵による蓄電池制作への試行錯誤が始まり、二代源蔵(当時は梅治郎)も大きな興味を持ちました。

しかし2人は理化学器械の需要増大への対応、琵琶湖疏水や蹴上の発電所建設、市電の計画など京都の近代化に伴う技術上の相談事への対応にも時間を割くことになり、蓄電池研究の時間はほとんどありませんでした。さらに1894(明治27)年には木屋町本店を拡張して新店舗を建築しますが、その年末に初代源蔵は脳いっ血で急逝してしまいます。25歳だった梅治郎は「二代島津源蔵」を襲名し、所主として父の興した事業をさらに発展させていきます。

二代島津源蔵
二代島津源蔵
X線写真撮影に成功し、国産初の医療用装置も開発

1895(明治28)年11月、ドイツの物理学者レントゲンは、物体を透過し、内部を写し出すことができる放射線を発見します。未知の数を表す文字を用いて「X線」と命名し、同年12月に発表すると、このニュースは瞬く間に世界中を駆け巡りました。

日本でも、東京や関西の研究者たちの間でその再現を目指す動きが起こります。ドイツ留学中にレントゲンの教えを受けた第三高等学校(現 京都大学)の村岡範為馳(はんいち)教授もその一人です。ただ当時の電池や感応コイルでは性能不足で、実験はうまくいきませんでした。

より高電圧を得るために、内国勧業博覧会で見たウィムシャースト式感応起電機を使うことはできないかと考えた村岡教授は、二代源蔵に協力を求めます。快諾した源蔵は、島津製作所を実験室として提供し、弟源吉も加わってともに実験を重ねます。

そしてレントゲン博士の発見から約11カ月後の1896(明治29)年10月10日、電動機を用いてウィムシャースト式感応起電機を回すことで20万ボルトを連続的に発生させます。数十分後には、桐箱に入れた1円銀貨の陰影を検出。ついにX線写真の撮影に成功しました。

その後、感応コイルで高圧に変換するなど、短期間のうちにさまざまな改良を施し、かなり良質な写真を撮影できるようになります。これをベースに教育用X線装置を商品化し、翌1897(明治30)年に発売したところ、大きな関心を呼びました。医療にも適用すべくさらなる技術開発を重ね、1909(明治42)年9月、国産初の医療用X線装置を納入。医療の世界でも島津の名が知られるようになります。

初期のX線写真
初期のX線写真
日赤大津支部病院に納入した医療用X線装置
日赤大津支部病院に納入した医療用X線装置

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二代源蔵、
日本の十大発明家の一人に

二代源蔵は、蓄電池の開発を本格化させ、亜酸化鉛の製造に
関する特許を世界各国で取得。その革新性が評価され、
1930(昭和5)年に日本十大発明家の一人に選ばれたのです。

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part5 二代源蔵、
日本の十大発明家の一人に
蓄電池の製造を本格的にスタート

二代源蔵は、世界初の発明により、1930(昭和5)年に日本の十大発明家の一人に選ばれます。その経緯を紹介したいと思います。

二代源蔵が蓄電池開発を具体的に始めたのは1895(明治28)年の陰極板や陽極板の試作でしたが、その後X線撮影の実験や教育用X線装置の開発と多忙が続きました。それが一段落した頃、京都帝国大学に新設された理科大学(工科大学)から蓄電池の製作を依頼され、使えなくなった古い外国製の蓄電池を預かりました。

二代源蔵は、以前から研究を進めていたこともあり、それほどの時間を要することなく、容量10アンペア時の鉛蓄電池を完成させ大学に納入します。これが知られ、次々に注文が寄せられます。島津で本格的な蓄電池製造が始まりました。

京都では日本初の事業用水力発電所が蹴上に完成し、1891(明治24)年に送電を開始しましたが、当時の電力供給は不安定で蓄電池に対するニーズが高まりました。一方で理化学器械の需要も増大し、木屋町二条の工場だけでは狭く、1903(明治36)年に河原町工場を新設しました。

当時の大型蓄電池はすべて輸入品だったため、二代源蔵は高品質な国産蓄電池を実用化しました。1908(明治41)年、Genzo Shimadzu(島津源蔵)の頭文字を用いたブランド名を商標登録、「GS蓄電池」は大いに歓迎されました。

島津源蔵 十大発明家の栄誉に輝く
島津源蔵 十大発明家の栄誉に輝く
世界に先駆けて主原料の製造法を完成

しかし、大きな課題が残されていました。蓄電池の極板の主原料は亜酸化鉛で、輸入に依存し、安定的に調達するのが困難でした。

二代源蔵はこれを克服するために、試行錯誤と粘り強い実験を続けました。目的の鉛粉を得るために、大型粉砕機を製作しましたが、その生成効率は高まりません。実験を続けていたある冬の朝、二代源蔵は粉砕機の鉛塊投入口に黒い埃があるのを見て指でぬぐいました。しばらくすると、また同じ埃が溜まっていたので拡大鏡で観察してみました。それがまさに鉛粉だったのです。送風装置を取り付けると、鉛粉収量は一気に18倍になり、しかも空気中の酸素と化合した亜酸化鉛で、マッチ1本で簡単に酸化させることができ、それまで製造が困難であった一酸化鉛になったのです。蓄電池をはじめ、鉛粉の工業的利用分野は広く、経済的にも大きな効果をもたらしました。

世界に先駆けて完成させた二代源蔵による亜酸化鉛の製造法「易反応性鉛粉製造法」は、1922(大正11)年2月に日本帝国特許第41728号を取得しました。その後、亜酸化鉛とその応用に関しての特許は、フランスをはじめ、10カ国で総数75件に達しました。

1930(昭和5)年の十大発明家は、専売特許条例の布告(1885〔明治18〕年)以降、許可された数十万件の特許および実用新案のなかで、最も社会的・文化的に貢献度が高かったとして選ばれました。二代源蔵を含めた10人の発明者は「日本十大発明家」として、同年12月、宮中での賜餐の栄に浴しました。

二代源蔵は「学理を教えられたら、その応用を考えなければいけない。死に学問ではだめだ」という信念のもと、事業に向き合っていました。

初期の易反応性鉛粉製造装置
初期の易反応性鉛粉製造装置

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島津を源流とする
いくつもの企業が誕生

蓄電池事業をはじめ島津製作所からいくつもの企業が
誕生しました。その多岐にわたる展開が、技術革新と
挑戦の歴史を物語ります。

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part6 島津を源流とするいくつもの企業が誕生
蓄電池事業から派生した魅力ある企業たち

二代源蔵は、蓄電池の事業のためには専門の組織を立ち上げて進めた方が効率的だと考え、1917(大正6)年1月、日本電池(株)(現 (株)ジーエス・ユアサ コーポレーション)を設立しました。同年、島津製作所も株式会社に改組して、二代源蔵が初代社長に就任しました。

蓄電池のための「易反応性鉛粉製造法」で得た亜酸化鉛粉は、防錆性能にも優れていました。船底の汚れや錆にはさまざまな生物や物質が付着することが多く、船体の耐久性や航行速度、燃料消費などに影響を及ぼします。こうした現象を防ぐべく開発されたのが錆止め塗料製品で、この事業を専門的に手がける会社として、1929(昭和4)年7月、鉛粉塗料(株)(現 大日本塗料(株))が誕生しました。

さらに、1937(昭和12)年8月には、既存の(株)日本輸送機製作所の事業を承継する形で、蓄電池を搭載した産業車両を製造すべく日本輸送機(株)(現 三菱ロジスネクスト(株))が設立されます。2年後の1939(昭和14)年には日本初のバッテリーフォークリフトを開発するなど、荷役用車両のパイオニアメーカーとして発展していきました。

蓄電池専門工場の今出川工場(1912〈大正元〉年開設)
蓄電池専門工場の今出川工場(1912〈大正元〉年開設)
標本事業やマネキンビジネスも島津から

再び時代を遡りますが、1891(明治24)年、初代源蔵の時代には、標本の製造を開始し、1895(明治28)年には標本部を新設していました。

動植物や人体の生理的・解剖学的構造などについて習得する際に、黒板と講義だけで学ぶのと比べ、現物もしくはそれを模した標本があれば、理解する上で大きな助けになります。物理や化学に加え、地質や金石(鉱物)、動物、植物といった課目も重視される流れの中で、島津は珍獣や野鳥の剥製、人体の骨格など標本製品を充実させ、諸学校からの注文が飛躍的に伸びていきました。

こうした標本を製作する技術の蓄積の中で、1925(大正14)年、マネキンの生産を開始しました。同年、道路拡張への協力のため、河原町工場は本店営業所などを残して、三条工場への移転を決定しました。

日本では1923(大正12)年9月に関東大震災が発生、海外から届いた支援物資には洋服も多く含まれ、洋服の普及が進みマネキン需要が生まれました。当初はフランスからの輸入に頼っていましたが、島津は標本技術で培った技術から、楮製紙(ちょせいし)を用いたファイバー素材から成る独自の製法を確立し、往時は8割を超える市場シェアを誇りました。

1945(昭和20)年の終戦後、マネキン事業は、島津でマネキン製作を主導したメンバーが独立して(有)七彩工芸(現 (株)七彩)を創業しました。標本部門も京都科学標本(株)(現 (株)京都科学)として独立し、二代源蔵の息子である島津良蔵が両社の経営に関わりました。

マネキン製作風景(1937〈昭和12〉年ごろ)
マネキン製作風景(1937〈昭和12〉年ごろ)
マネキン
マネキン
三条工場(1928〈昭和3〉年5月)
三条工場(1928〈昭和3〉年5月)

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二代源蔵を支えた2人の弟

二代源蔵の弟、源吉と常三郎。二人の活躍も事業の発展に
欠かせませんでした。科学技術に情熱を注いだ挑戦のDNAは、
今なお受け継がれています。

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part7 二代源蔵を支えた2人の弟
次兄源吉の情熱が形になった島津式感応起電機

二代源蔵とともに島津製作所の発展を支えるために奔走した、弟の島津源吉と島津常三郎の活躍も紹介します。

1877(明治10)年生まれの弟源吉と1883(明治16)年生まれの末弟常三郎の2人も、島津が社会に役立つ技術やお客様が求める製品を生み出す上で重要な役割を果たしました。

兄である二代源蔵が蓄電池の開発と事業に追われるようになってからは、その他の製品の開発・製造については、まだ若年だった源吉が主導しました。

源吉が生涯取得した特許・実用新案は56件に及びます。源吉は、二代源蔵とともにX線写真の撮影実験も行いました。その時に使用したウィムシャースト式感応起電機の発電状況に課題を感じ、後に改良します。ユーザーが使用する際に安定して動作するよう、源吉は情熱と労力を惜しみなく注ぎ、ついに満足のいく起電機が完成します。源吉はこれを「島津式感応起電機」と名付けました。

輸入された外国製起電機が600円で販売されていたところ、島津式感応起電機は45円。10分の1以下の値段でありながら、性能面ではそれらを凌駕していました。1914(大正3)年の東京大正博覧会で金牌を受けるなど高く評価され、他の島津製品に対する評判にも好影響を及ぼしました。

1939(昭和14)年6月に、源吉は島津製作所の第二代社長に、常三郎は副社長に就任、二代源蔵は会長になり、力を合わせて難しい時代を乗り越えました。

二代源蔵、弟源吉、末弟常三郎の三兄弟
二代源蔵、弟源吉、末弟常三郎の三兄弟
欧米諸国に赴き、島津のグローバル展開の礎を築いた末弟常三郎

常三郎は、1906(明治39)年に初めて東京に拠点を置く際の責任者に任じられたように、島津社内では経理や営業関係を担当することが大半でした。その一方で、「X線発生器保安装置」(1917〔大正6〕年登録)や「油浸式管球保持装置」(1925〔大正14〕年登録)、「温湿度調節器拡大率変更装置」(1933〔昭和8〕年登録)など20件近い実用新案を取得するなど、技術面での功績も小さくありませんでした。

第一次世界大戦の終戦から間もない1920(大正9)年には、欧米諸国の先進企業を視察する旅に出ています。進んだ欧米の技術を学んで島津の研究開発活動に役立てるとともに、そうしたメーカーの日本における総代理権を獲得するという目標(社命)がありました。常三郎の働きによって、米国、英国、ドイツ、オーストリアなど10社との契約が成り、島津に対する信頼向上やその後の研究開発活動の助けになりました。

社業だけではありません。常三郎は、京都地方裁判所の調停委員など、求められればさまざまな公職に就いて汗をかきました。島津の属する業界に限っても、電機、化学工業機器、度量衡器といった関係団体の役職に就任し、指導的な役割を果たしました。

初代源蔵が興した事業とその志を継いだ息子の二代源蔵、源吉、常三郎ら3人は、「発明一家の三兄弟」と評されました。世の中が求める技術や製品を生み出す、父子が体現した挑戦のDNAは、各時代を支えた社員によって引き継がれ、現在の島津にもしっかりと根付いています。

渡欧中の常務島津常三郎(左端)、ドイツのライプチッヒ戦勝記念塔前にて(1923〈大正9〉年10月)
渡欧中の常務島津常三郎(左端)、
ドイツのライプチッヒ戦勝記念塔前にて
(1923〈大正9〉年10月)

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島津家のルーツ
京都とともに歩みチャンスをつかんだ初代源蔵
日本の民間で初の軽気球飛揚、長男梅治郎も成長
初代源蔵の想いを継いだ梅治郎が二代源蔵に
二代源蔵、日本の十大発明家の一人に
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