社会課題への挑戦

教育現場で必要な理化学器械と標本を製造、科学知識の普及も
近代化と教育振興に挑む京都で創業
1868(明治元)年の明治維新により江戸は東京へと改称され、翌年1869(明治2)年には京都から東京への遷都が行われました。これに伴って、京都の人口は34万人から23万人に減少するなど急激に衰微。京都府は、復興には次代を担う教育の振興と、西洋の技術導入による近代化が必要と考え、1869(明治2)年に町の区分であった住民の自治組織「番組」を学区として64の小学校を開校しました。明治政府が「学制」を発布し、全国に小学校の建設を始めたのは、それから3年後の1872(明治5)年ですから、当時の京都は日本で最も教育振興が加速していたと言えるでしょう。
また、初代島津源蔵が住まいを構えていた京都木屋町二条の周辺には、勧業場、染物工場、栽培試験場など次々と産業施設が立ち並びました。科学技術を通した未来への気風を感じ取った源蔵は、理化学・工業技術の研究と普及のための勧業教育施設であった舎密局(せいみきょく)に出入りするなか、理化学器械の修理依頼を受けました。
当時、教育現場での理化学器械は西洋からの輸入品に頼らざるを得ず、それらの修理を重ねて知識を身に付けた源蔵は、1875(明治8)年に島津製作所を創業し、理化学機器の製造を始めました。
第三高等学校(現 京都大学)などから、理化学器械の製作依頼をたびたび受け、要望に必ず応えるという姿勢で信頼を深めていきました。必要とあらば理化学器械に限らず、あらゆるものを調達して提供し、教育現場に貢献するとともに、その名を業界に広めていったのです。取扱い品目は着実に増え、源蔵は、1882(明治15)年に「理化器械目録表」を発行しました。これは島津に現存する最古のカタログで、5部門110点を図版付きで紹介しています。それらは東京の大学や師範学校などで用いられるものまで網羅していました。
その後、理化学器械事業は1969(昭和44)年に分離独立し、創業から150年を経た今日は株式会社島津理化が事業を継承。製品の販売だけでなく教育と研究に関わる総合技術会社としてコンサルティング事業へと発展させています。

科学情報誌の発行や技術サロンの設立
1886(明治19)年には科学知識の普及・啓蒙を目的とした『理化学的工芸雑誌』を創刊し、欧米に留学した学者らによる最新の学説や情報等を伝えました。さらに同年、科学や理化学器械のさらなる普及を目指し「理化学会」を設立。教育現場からの求めに応じて理化学試験用器具を用いた公開実験のほか、各種分析や試験などの業務を担いました。『理化学的工芸雑誌』には同会の情報も掲載。同誌は、時代に合わせて誌名や内容を変えながら、現在は技術誌『島津評論』として受け継がれています。
このような、他に類を見ない取り組みの数々は、教育界の指導者からも高い評価を得、島津の発展への原動力になっていきました。

師範学校の教壇で源蔵が科学を指南
教育界への貢献としては、初代源蔵、二代源蔵が学校で教鞭をとった史実も残っています。理化学器械製造だけでなく科学知識の普及に社会的使命感を持って取り組んでいた初代源蔵の名は広く知られることとなり、1886(明治19)年には義務教育に携わる教師の養成機関であった京都師範学校金工科の教員を委嘱されました。この活動は当時18歳であった息子の梅治郎(後の二代源蔵)にも引き継がれ、京都府の第1回小学校教員学力検定委員も委嘱されました。梅治郎の教育に対する情熱は京都だけにとどまらず、鹿児島県の教育界からの招聘により鹿児島高等中学造士館(現 鹿児島大学)で、島根県からの依頼では松江で物理学の実験や講演を行うなど、全国各地からの講演依頼もたびたび受け、出向いていました。
人体や動物、植物などを深く理解するために「標本」を
さらに島津は教育に関わる事業の裾野を広げていきます。自然科学を学ぶにあたって西洋では「標本」が重視されており、第三高等学校や医学校(現 京都府立医科大学)などでも標本が求められました。源蔵は、西欧諸国に遅れを取っていた日本の教育現場に対しても、「人体の構造や動物・植物の生態は講義だけで理解できるものではない」と、その必要性を説いていました。
その思いを受け継いだ二代源蔵は、1895(明治28)年に「標本部」を立ち上げます。標本の対象は分野を問わず、地質・鉱物・動物・植物の有り様や人体の生理的・解剖学的構造を、より忠実に細部まで伝えることができ、学校からの注文も増加していきました。島津が手掛けた標本は、ものづくりへのこだわりと優れた技術力の賜物といえるほど確かなものでした。その後、標本部は1948(昭和23)年に京都科学標本株式会社(現 株式会社京都科学)として分離独立し、模型標本のほか医学・看護・介護教育用実習モデルや医療画像用ファントムなどを製造しています。


医療用X線装置を扱う専門技術者を
放射線医学の黎明期から始まった技師養成の歴史は未来に続く
医療用X線装置の普及に伴い必要になった技術者
二代源蔵は、ドイツのレントゲン博士による1895(明治28)年のX線発見からわずか11カ月後に第三高等学校の村岡教授とともにX線写真の撮影に成功し、島津は医療用X線装置のメーカーとしても歩み始めました。
医療用X線装置の普及とともに改良や新製品の開発を進める傍ら、二代源蔵はX線に関する正しい知識を持ち、装置の操作を安全に行うことができる専門の技術者の養成が必要だと考えました。放射線医学の黎明期であった当時、X線による新しい診療は高く評価され、医療機関への導入が進みましたが、当時は専任の放射線技師ではなく医師が装置の操作をしていたので、医師が診療に専念できなくなるという問題があったのです。
そこで二代源蔵は1921(大正10)年に専門の技術者養成のため、第1回レントゲン講習会を開催しました。当時はこのような専門講座は少なく、1週間の講習会では、一流の講師による講義だけでなく実習指導も実施。講習会は回を追うごとに科目が増え、受講者数も増加しました。そうして1939(昭和14)年まで開催された後、日本医学放射線学会へと継承されました。
日本初のレントゲン技師養成学校を設立
島津のX線技術者を育てる取り組みは、1927(昭和2)年にさらに大きな一歩を踏み出しました。京都府の認可を得て、X線技術者を養成する日本初の教育機関「島津レントゲン技術講習所」を設立したのです。開校時の履修期間は6カ月でしたが、放射線医学の進展に伴って専門技師に必要な知識は増大し、教育科目の一層の拡充と修学期間の延長がなされていきました。学校の名称も「レントゲン技術専修学校」「京都放射線技術専門学校」「京都医療技術専門学校」「京都医療技術短期大学」を経て、2007(平成19)年から4年生大学の「京都医療科学大学」となっています。
同校で学んだ学生は、国家試験に合格して診療放射線技師となり、日本全国の医療機関で活躍しています。同校での国家試験合格率は全国平均を上回り、2022(令和4)年度は100%を達成しました。学内には、医療現場で実際に使われているX線診断装置など、島津製作所がバックアップして整備している医療機器が数多く設置され、学生の多くの学びに貢献しています。
島津も同校とともに、学生一人ひとりが将来の医療現場で患者さんと接する際に、また他の医療関係者と力を合わせて貢献していくために、多くの知識と豊かな人間性を併せ持つ医療人になることを願い、その育成を大切にしています。


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