第一章「二人の島津源蔵(1)」島津の礎を築いた二人の島津源三の足跡をたどり、島津のフィロソフィーを発見する

第2回「チャレンジ精神が揚げた、日本初の気球」

2008年11月18日 公開

ガスクロマトグラフやリモート式X線TVをはじめとして、島津製作所の製品には「日本初」や「世界初」を名乗る、独創的なものが多い。

失敗を恐れないチャレンジ精神、とでもいおうか。
そんな気風が島津製作所にはあふれている。
そんな島津のチャレンジ精神を象徴する出来事として社内外に広く伝わっているのが「日本初の有人軽気球の成功」である。

槇村(まきむら)知事

初代源蔵が島津製作所を興してまもない1877年(明治10年)。
京都府槇村(まきむら)知事からの命を受けた学務課長・原田千之介から「気球を製作してみないか」との依頼が来た。
原田は京都府の理化教育の実務に携わっていた人物である。
世は文明開化。
その大本である「科学の力」を見せることで人々の間に理化教育への関心を高めようとの意図であった。
なぜ源蔵が指名されたのだろうか。
原田は、頻繁に舎密局に出入りするひとりの鍛冶職人に注目していた。
初めて見る機械に目を輝かせ、外国人教師の話を熱心に聴き、あらゆる知識を身につけようとする源蔵であった。
気球製作は京都以外でも試みられたことがあるが、いずれも失敗していた。
指標となるお手本があるわけではない。
しかし、「ひょっとしてこの男なら」と原田は源蔵の「熱い心」に賭けたのかもしれない。

源蔵は、「わかりました」と引き受けたのはいいものの、作り方はおろか、そもそも気球を見たこともなかった。
原田から渡された絵図が頼りだった。
気球に入れる水素ガスは、伏見の酒蔵から巨大な仕込み樽11個を買い、鉄くずに希硫酸を流し入れる発生装置を作ることで目処が立った。
問題は水素ガスを漏らさない球体だった。
当時の日本にゴムの膜はまだない。
コンニャクをすりつぶし紙や木綿に塗ってみたが、それでは重過ぎる。
試行錯誤の末、やっとのことで羽二重に荏胡麻油で溶かしたゴムを塗る方法を思いつく。
こうして数ヶ月の格闘の甲斐あり、気球が完成した。

京都御所での軽気球飛揚図

年も暮れようとする12月6日。
京都御所には3銭の入場券を手にした4万8千人の大観衆が集まった。
京都の文明開化を高らかに宣言するビッグイベントである。
人々の歓喜と驚嘆の中、日本で初めて人を乗せた気球が地上36mの高さまで揚がったのだった。

気球製作は、一見、事業である理化学器械とは関係がない。
理化学の啓蒙という使命感、そしてなにより、新しいものを作りたいという源蔵のチャレンジ精神が気球を揚げたといえるのではないだろうか。
この成功は、東京遷都によって沈んでしまった京都の人々に自信と誇りを取り戻させた。
同時に、技術者としての源蔵の名を一躍広めることになり、
その後の島津発展の原動力となったのである。