第一章「二人の島津源蔵(1)」島津の礎を築いた二人の島津源三の足跡をたどり、島津のフィロソフィーを発見する

第1回「科学で生きる。」~島津の源、教育用理化学器械~

2008年11月18日 公開

教育用理化学機器(島津製作所 創業記念資料館収蔵)

島津製作所 創業記念資料館に、1冊のカタログが残されている。
明治15年に発行された「理化器械目録表」。理科の時間に使う実験器具のことである。
図といっしょに紹介されている器械は110種類。この1冊には、島津製作所の創業者・初代島津源蔵の「科学」への情熱が凝縮されている。

京都の近代工業の原点ともいえる島津製作所。
ノーベル賞受賞者をも輩出し、現在では幅広い分野で事業を展開するグローバル企業であるが、そのはじまりは教育用理化学器械の製作であった。

1895年頃の木屋町本店

初代島津源蔵は仏具職人の家に生まれ、21歳で分家・開業する。
独立から8年後。日本、そして京都にとって、歴史の大きな転換点となる大事件が起こった。
それが明治維新であり、東京遷都である。
1000年もの間、都として繁栄した京都から公家をはじめ多くの役人が立ち去り、一時は人口が10万人も減ったという。
さらには廃仏毀釈の波が押し寄せ、本業である仏具への注文は激減していた。
そんな源蔵に幸運が残されていたとしたら、それは「地の利」であっただろう。
西洋の最新技術を導入することによって京都の復興を目指そうと、
源蔵が開業した木屋町二条周辺にさまざま産業施設が設立されたのである。

京都府立の舎密局

源蔵は、一帯に満ち溢れる西洋科学の薫りを感じながら、技術導入の拠点・舎密局(工業試験場)に足繁く通い始めた。
そこでは活版印刷が行われ、ガラス、製糸、そして石鹸まで作られていた。
初めて見る西洋の機械、初めて触れる西洋の科学知識に、元来新しいもの好きの源蔵は心を奪われていく。
源蔵が舎密局で見たもの。それは、西洋の技術や知識だけでなく、科学で生きる日本の、京都の、そして源蔵自身の未来だったのではないだろうか。

ワグネル博士

舎密局で理化学の講座を受講し、実験への参加を重ね、熱心に知識を吸収していく源蔵に外国器械の修理や整備の仕事が入り始めた。
源蔵は器用な手先で修理をこなしながら、外国製品を徹底的に研究していく。
おりしも時は学制実施による教育振興の時代。
読み書きやそろばんが主であったそれまでの教育に自然科学の重要性が唱えられていた。
とはいえ、当時の日本に理科の教育器材はほとんどない。
現代のように簡単に輸入できる時代ではなく、できたとしても多大な費用がかかる。
源蔵は、決意した。
「自分で理化器械を作ろう。そして日本を科学の国にしよう。」
これが、島津製作所のはじまりであった。

「理化器械目録表」には5部門・110種類の製品が載っている。

理化器械目録表

製造開始からわずか7年でこれだけの品を揃えたことだけでも驚かされるが、
それぞれの製品で3段階の価格が選べるようになっていることにもっと驚く。
当時はまだ、財政的に厳しい学校も多かったため、源蔵はより多くの人たちに使ってもらえるようにと、材質などを変えて作り分けていたのだ。
科学で生きる。いや生きていくしかない。

源蔵を突き動かしたのは、未来への使命感とその情熱だったのである。