島津のダイバーシティ

社員インタビュー

おもしろきこともなき「勤」をおもしろく
軸屋 博之
公益財団法人京都高度技術研究所
島津で花を売る?

「僕は切り込み役。島津が新しいことが始めるときには、何かと僕に声がかかる。でも、残念ながら、僕が加わったもので、事業化したものはほとんどないんです」
と頭を搔くのは軸屋博之さん。この3月(2019年)島津製作所を定年退職し、現在はシニアエキスパートとして公益財団法人京都高度技術研究所に出向している。

軸屋さんは、ずっと研究畑を歩んできた。学生時代、大学に通いながら静岡県三島市の国立遺伝学研究所で、研究生活に取り組んでいた。1980年前後、DNAの配列を決める技術がほぼ確立。それを使って、ウイルスや昆虫、植物などのDNAの塩基の並びを特定していこうという活動が世界的に盛んになり、大学の先生の紹介でその手伝いに行ったのだ。 「ウイルスの遺伝子配列なんて、今でこそ高性能なシーケンサーを使えば数時間で終わりますが、当時は全部手作業で1年はかかっていました。当然、何人いても手が足りない。研究の補助といっても肉体労働以外の何物でもなかったですね」と笑う。

大学卒業後も引き続き遺伝研で研究をしていたが、同研究所の出身で、島津に就職した先輩から「島津がライフサイエンスを始めるんだが、人が足りないので来ないか」と誘われ、島津に入社した。1986年のことだ。
配属されたのは技術研究本部中央研究所(現 基盤技術研究所)。ライフサイエンスがどうやら大きな市場になりそうだと見た島津は、それに関連する装置が作りたいと目論んでいた。しかし、軸屋さんが加わったチームはなぜか生化学の研究者ばかりで、装置を作れそうな雰囲気はなかったという。

「入社当初は、浮いていた」と振り返る。
装置は作れなくても、何か成果と言えるものを作らないと、せっかくできたライフサイエンスのチームが解散の憂き目に遭いかねない。軸屋さんらは頭を悩ませた末、「ユリはどうだ」と思いついた。

当時、ライフサイエンス事業とは全く違うところで、島津は花卉販売業に進出しようとしていた。それを耳にし、科学技術を売りにしている島津の目玉商品として考えたのが、無花粉のユリ。ユリは雄しべにたっぷりと花粉を持っているが、これが服につくと取れなくなってしまう。そこで花粉をつけないユリを開発すれば、売れるだろうと考えたのだ。 「花粉を作るのが遺伝子のどの部分かを探し、その部分を省いた遺伝子を作り、それを細胞の中に入れる。ユリでそこまで作り上げたのは、僕らが世界初だったんじゃないでしょうか」
研究はうまくいったが、製品化されることはなかった。しかし、いま花屋に行けば、無花粉のユリは、わりと簡単に手に入る。市場の見立ては悪くなかった!

いま世間で注目を集めている生分解性プラスチックの開発にいちはやく取り組んだこともある。90年代後半、試験プラントを作るところまでいったが、市場のほうがなかなか育たず、最終的に製品化する前に、研究成果ごと他社に譲渡してしまった。もし世の中の動向に合わせて事業化できていれば、いまごろ引く手あまただったろう。
「うちの会社は何でも早すぎる。失敗を恐れずチャレンジするという社風から、個人的には楽しくはありましたが、正直肩身は狭かったですね」

ピペットを置いて外に出る

入社間もない頃、軸屋さんは「大学や海外に出られる機会があれば、積極的に話を回して欲しい」と会社に希望を伝えていた。
「大学時代も、外(遺伝研)に出ることで、尊敬できる人や新しい研究に出会えたんです。出向や駐在が苦手という人もいるでしょうが、僕は全く抵抗がなくて、むしろどんどん外へ出たかったんです」

京都での生活が10年になり、そろそろ次の新しい出会いを求めていたころ、管理職に昇進。研究やビジネスを創出・サポートする立場に回った。そのとたん希望が叶うようになるが、目まぐるしく内外を飛び回る日々が始まった。
まずは、筑波学園都市でライフサイエンス系の研究所の立ち上げに携わった。自ら施設の図面を引き、自分が研究するなら、ここにはこんな設備があるといいなと、わくわくしながらアイデアを巡らせた。
「一時、工業技術院にも席を置かせてもらって、そこで日本中から集まった第一線級の研究者たちとも交流することができましたし、生分解性プラスチックの研究の続きで、分解性微生物を見つけることもできた。本当に面白かったですね。ただ、もうその研究所の建物はなくなってしまいましたが」

続いて、希望のアメリカへ赴任。島津が将来タッグを組むかもしれないライフサイエンス系のベンチャー企業を探して渡りをつけるという切り込み役を任された。論文に片っ端から目を通し、有望そうなベンチャーを見つけてはアポを入れてどんどん会いに行く。これもとても面白かったが、話がまとまった企業は一件もなかった。
「我々の姿勢の問題でしたね。結局ベンチャーと組むといっても、その技術を利用しようというところまでしか考えられていなかった。ベンチャー側にしてみれば、なんとかして自分たちの会社を大きくしたいという思いがあるわけで、我々もその人と一緒にベンチャー企業を大きくするつもりで、しっかり経営に入り込んで考えていかないと上手くいかないんです」
と反省を口にする。もっとも、この経験が、のちに役立つことになるとは、まったく気づいていなかった。

米国駐在時の家族旅行(ナイアガラ)
米国駐在時の家族旅行(ニューヨーク)

2002年、ある総合商社から「シンガポールのがんセンターとともに、新しいがんのマーカーを見つけるという事業をするのだが、島津さん一緒にどうですか」と声がかった。またしても軸屋さんは切り込み隊長を任され、シンガポールに向かう。アメリカではできなかった「入り込む」役を自ら買って出た形だ。目を輝かせて取り組んだが、これも鳴かず飛ばず。
「パテントはいくつかとれたのですが、事業としてうまくいったとは言えませんでした。島津の装置を使ってはいるものの、これ自体はコンテンツ事業で、装置や試薬で売り上げが上がるというものではない。その辺が難しかったですね」

シンガポール駐在時(アラブストリートにて)

日本に帰国すると、今度は「先生」として母校である九州大学の農学研究院に転籍出向した。新設された「バイオアーキテクチャーセンター」という生命科学の施設に島津から教授を出すということになり、白羽の矢が立ったのだ。学生に、企業における研究者の心得などを講義すると同時に、質量分析装置を使った研究にも取り組んだ。新しい知見を得られたことは、軸屋さんにとって大きな喜びだった。

九州大学派遣時(専攻謝恩送別会にて同僚と)

2010年に復職し、基盤技術研究所へ約8年通ったが、2018年10月から京都市の外郭団体である京都高度技術研究所(ASTEM)へ通い始めた。そのまま2019年の3月に島津を定年退職し、現在に至っている。

ASTEMでの役どころはベンチャー支援。大学教授らが持ち込むビジネスアイデアやそのタネとなる技術に対して、補助金の申請方法を伝授したり、ものづくり中小企業と京都府内の病院とのマッチングを進めるなど、京都の活性化に一役買っている。
「ベンチャーは10社立ち上がっても1社しか残りません。そういう厳しい環境に身を投じようとする人は、目の輝きが違う。本気で市場を変えようとしているんです。そんな人と出会い、新しい知見と出会えるのは楽しくて仕方がありません」 と自身も目を輝かせながら語る。

楽しむことを覚えてほしい

希望して海外赴任や大学へ多く出向し、島津を外から見る機会に恵まれていた軸屋さんの目に、島津はどう映っているのだろう。 「切り込み隊長としてずいぶん振り回されはしましたが、それは僕自身が望んだことでもあって、本当に楽しく仕事をさせてもらったと思います。もっとも、アメリカ駐在時代、意見を具申して、本社の意思が戻ってくるまで、ずいぶん待たされたことには、恨み節の一つも言わせてほしい(笑)。ただ意思決定が遅いことが悪いかといえば、僕は必ずしもそうではないと思うんです。市場の変化を追いかけるのならば、スピードが勝負です。しかし、市場を自分たちで作るなら、じっくり考える必要があります。勝てる企業は、ずっと考えていますよ」

後輩たちにもぜひ伝えておきたいことがある。
「仕事を楽しむことを覚えてほしいですね。納期や目標に追われ悲壮な顔をしている若い人を見るのはつらい。でも、何事も考え方ひとつだと思うんです。論文の提出で他の研究者に負けるのは悔しいけれど、実際にはそれで科学がひとつ前進したことになる。そう思えば楽しくなるでしょう。それに、抜かれたということは次に勝つチャンスがまたできたということ。同じやるなら楽しいほうがいい」。
「世を面白くするも、しないも、心の持ち方次第」と詠んだのは幕末の志士、高杉晋作。新しい時代は、面白がれる心から生まるのかもしれない。

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