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初代島津源蔵のもとに、京都府学務課長であった原田千之介氏が、軽気球飛揚の話を持ち込んだのは、明治10年(1877)の初夏でした。
原田千之介氏は、理化教育の熱心な推進者で、なにか具体例を示して京都府民の科学思想を啓発したいと思っていました。
そのころ、欧米では空への関心高く、軽気球の研究が盛んでした。 外国人の手を借りずに京都で軽気球を作り、京都の空に揚げれば科学思想の啓発に最も効果的であるとの考えにたち、その計画を当時の槙村知事に進言しました。
槙村知事も大賛成で、さっそく、軽気球の製作を舎密局で勉強し理化学器械の製造を始めた初代源蔵に頼むこととし、飛揚の日を招魂祭の同年12月6日と決めてしまいました。
話を持ち込まれた初代源蔵は、軽気球に対する知識もなく、頼りにするのは原田千之介氏がもたらした外国雑誌の一枚の絵図だけで、しかも、製作期問はわずかに数カ月ということで頭を抱えました。
水素ガスは鉄屑に硫酸を注げばできることはわかっていましたが、問題は水素ガスをつめる球体の材料でした。 ガスが漏れてはいけない。 重すぎても弱くてもいけない。
木綿の布に油を塗ったり、にかわをすり込んだり、試行錯誤を繰り返し、ついに羽二重にダンマー(樹脂)ゴムを任胡麻油でとかして塗ったものが気密性もよく、堅牢であり、なによりも軽量であることがわかりました。
それでも、普通の大人を持ち上げる浮揚力はなく、小柄な人でなくてはなりませんでした。 軽気球の飛揚は、大変な前人気で、観覧料は一般は三銭、生徒は一銭五厘(当時、米一升が五銭強)であったにもかかわらず、4万8、000枚の観覧券は売り切れたといいます。
12月6日午前9時前、京都仙洞御所の広場にあふれる、わが国初の人の乗った軽気球が揚がるのを今や遅しと瞳をこらす大観衆の前で、軽気球は36メートルの高さまで揚がることに成功しました。
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